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三河・吉田城とは
三河・吉田城、愛知県豊橋市の吉田城(よしだじょう)は、安祥城主・松平長親を警戒するため、1505年に長山一色城主・牧野成時(牧野古白)が、今川氏親の命を受けて、付近に城を築いたのが始まりとされています。
築城当初は今橋城とも呼ばれましたが、1506年に落城し、牧野成時(牧野古白)は討死したとも、瀬木城に逃れたとも。
そして、今橋城主は戸田宣成(戸田金七郎宣成)となっています。
1519年には、牧野成三と牧野信成が今橋城を奪還。
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1529年、西三河から松平清康が進出すると、牧野信成は伝次成高、小伝次成国、新三成村らと城から出て迎え撃ったが大敗し、吉田城は陥落。
三河一円を松平清康が支配する事となった。
1535年12月、松平清康が家臣に殺害されたあと、牧野成敏が一時、吉田城主となったが、1537年には戸田宣成が吉田城を奪回するなど、このように吉田城を巡る争いは熾烈を極めた。
1546年、牛窪城主(長山一色城主)・牧野保成の要請を請けて、軍師・太原雪斎を擁する今川義元が戸田宣成を攻めると、吉田城は陥落。
城代に伊藤左近や大原資良(小原鎮実)が派遣され、今川家による東三河最重要拠点となりました。
1560年5月、今川義元が桶狭間の戦いで、織田信長に討たれると、1565年には、今川家から離反した松平家康(徳川家康)が大原資良の吉田城を9ヶ月に渡る兵糧攻めを行った。
陥落後は、重臣の酒井忠次が、吉田城主として入ります。
1568年末からの遠江侵攻では、掛川城を攻囲するまで、酒井忠次の東三河衆は別行動を取っていました。
長篠城、二俣城、高天神城などを攻略した武田信玄には1571年に、吉田城の東2キロ程にある二連木城を攻め落とします。
この時、徳川家康は5000の援軍を出しましたが敗退し、吉田城に籠城しました。武田信玄も吉田城まで攻め込みますが、北条氏政などの動きも警戒し、甲斐に戻っています。
1588年、酒井忠次は嫡男・酒井家次に家督を譲って隠居。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにて、徳川家康が関東に移封となると、酒井家は下総臼井城へ移り、吉田城には15万2千石で、池田輝政(池田照政)が入りました。
池田輝政は、吉田城や城下町を大改築し、吉田大橋の架け替えなども実行するなど、関ヶ原の戦いのあと、1601年に姫路城に移封されるまで、整備を続けました。
江戸時代の吉田城は、5万石前後で譜代大名が頻繁に入れ替わります。
吉田城の最後を預かったのは、大河内松平家70000石で、1749年から7代続き、明治維新を迎えました。
吉田城には復元隅櫓があります。
天守閣ではありません。
上記は吉田城の本丸です。結構広いですね。
続日本100名城のスタンプがある場所は、吉田城鉄櫓の中に設置されているようです。
三河・吉田城への行き方
三河・吉田城へのアクセス・行き方ですが、名鉄名古屋本線・豊橋駅から路面電車で、豊橋公園前駅もしくは市役所前駅で下車し、徒歩約5分。
名鉄名古屋本線・豊橋駅から歩くと20分です。
駐車場は、下記の地図ポイント地点から進入する、豊橋公園の無料駐車場100台が便利ですが、イベントなども多くて混雑(満車)となることが多々あります。ご注意を。
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