和歌山県

紀伊・広城 紀伊守護の畠山氏が本拠とした山城

紀伊・広城

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紀伊・広城(ひろ-じょう)は、和歌山県広川町名島にある標高135m、比高110mの山城です。
別名は、紀伊・高城、紀伊・名島城とも言うようです。

この辺り一帯は平安時代の末期から紀伊・湯浅城の湯浅氏が治めていました。
南北朝時代になると、湯浅氏は南朝方として活躍していましたが、1379年、北朝方の山名義理が和泉・土丸城を落とした勢いで、紀伊まで乱入すると、湯浅城も攻めて落として滅亡します。
その後、1392年に大内義弘が紀伊に入ると山名義理を降伏させ、紀伊守護にも就任して支配しました。


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その大内義弘のあと、1400年に畠山基国が紀伊守護になると、海南市の紀伊・大野城を本拠としています。
このとき、紀伊・岩室城には、弟・畠山満国に与えましたが、紀伊・湯浅城には、湯浅掃部助と楠木正成の残党が後村上天皇の孫である義有王を奉じて、湯浅城に籠ったため、畠山氏と対立しました。
これに対抗するため、1401年、紀伊守護・畠山基国は、湯浅城のすぐ南側になる紀伊・広城(紀伊・名島城)を新たな本拠として築いて、紀伊・大野城には2男の畠山満則を残し包囲します。
しかし、堅固な湯浅城をなかなか攻略できずにいましたが、1447年に畠山氏が紀伊・湯浅城を3回攻めて、ようやく陥落させました。

戦国時代の紀伊守護は畠山尚順(はたけやま-ひさのぶ)で、本拠の河内守護と越中守護も兼任していました。
しかし、管領・細川政元に味方していた赤松政則らに攻められるなどして、度々、河内から紀伊に逃れては再起を図っています。
女装して紀伊に逃れたこともあると言います。
なお、紀伊・広城がある広には、近臣の林堂山樹(はやし-どうさんじゅ)を派遣して支配を強化しようとしたようですが裏目に出ました。
1520年8月頃、日高の旗頭で内衆の野辺慶景が湯川氏・玉置氏と結託して謀反を起こし、林堂山樹は殺害されたようで、畠山尚順は遊佐氏らと堺に逃亡して没落しました。
なお、1522年?に、紀南の紀伊・亀山城主の湯川光春と、みなべ町の平須賀城主である野辺慶景(のべ-よしかげ)が連合して、紀伊・広城へ攻めて落としたとありますので、かろうじて畠山氏の勢力も残っていたようです。

紀伊・広城

このとき、本丸が落城しても、東の丸にて、額田勘三郎(額田甚三郎義正)なる武将が抵抗を続けたとあります。
これは、どうも、1520年に、紀伊・広城の本丸が落城したあとも、東の丸には額田勘三郎(額田甚三郎義正)が籠っていたとも考えられます。
実際に、河内からの援軍もなく頑張った額田義正の雄姿は語り継がれており、落城後もこの東丸を「甚三郎の壇」と呼んだと言います。

そのあとは、湯川氏の所領となったようです。

戦国時代まで使われたためか、遺構としては大堀切が残っているなど、なかなか見どころもあるようですが、今回は新宮城まで目指すため、遠景の撮影のみに留めています。


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紀伊・広城への交通アクセスですが、高城山の南麓から果樹園の林道が山頂まであるそうです。
ただし、道は非常に狭いので、歩いて登るのが一般的なようです。
ここにきて、土砂降りの雨になったため、登城は断念しています。

可能であれば、湯浅城(旅館)に宿泊して、紀伊・湯浅城と共に紀伊・広城も見学したいところです。
次には紀伊・手取城に向かいました。

紀伊・湯浅城 地元の方が整備している歴史ある山城
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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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