和歌山県

紀伊・手取城 玉置直和と玉置永直の本拠地

紀伊・手取城

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紀伊・手取城(てどりじょう)は和歌山県日高郡日高川町和佐にある標高171mの山城で、比高は160mと堅固です。
最初の築城は不明ですが、南北朝時代に玉置大宣が築いたとされます。
玉置氏は平家落人とされ、平清盛の嫡男である平重盛の次男・平資盛の子孫だと言います。
十津川村にある玉置社の神官となりました。
ちなみに、織田信長の織田氏も、平資盛の子孫だと自称しています。
その玉置氏の一族とされる玉置大宣が日高川を下って和佐に進出すると別所谷に手取城を築いて、和佐玉置氏を起こしました。
和佐駅の東にある紀伊・山崎城(川上城)の川上則秋(川上兵衛則秋)を滅ぼして、自らの手で取ったので、この城の名前が「手取城」になったとされています。


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玉置氏の推定石高は1万石以上で、紀伊・亀山城の湯川氏と勢力を2分しましたが、戦国時代の玉置直和(たまき-なおかず)は、湯川直春の娘を正室に迎えており、湯川衆に属する形となりました。
1562年、教興寺の戦いでは、紀伊守護・畠山高政の命を受けて、湯川衆として湯川直光、鈴木重意、根来衆らと共に三好長慶と戦いましたが、手痛い敗北を喫します。
ただし、玉置直和は生没年が不明のため、この頃の当主は父・玉置盛辰だったかも知れません。
そのまま、ずるずると、湯川氏の方針に沿ったことから、1585年には、豊臣秀吉の紀州征伐を受けます。
このとき、玉置直和は湯川衆の軍議にて、白樫氏・神保氏らと共に豊臣秀吉に降伏するべしと発言しましたが、結果的には徹底抗戦と決します。
そのため、玉置直和は寝返ったようで、1585年3月、湯川直春200の兵に攻められると坂ノ瀬の戦いにて敗れ、手取城は陥落しました。

その後、紀伊は羽柴秀長が治めることになり、玉置直和は紀伊・手取城を返還されています。
ただし、所領が減らされたことに不満を持ったようで、子の永直永直に家督を譲ると、隠居して高野山に籠りました。
文化人でもあったようで、茶の湯の瑞穂流を起こしたと伝わります。

熊野

玉置永直(たまき-ながなお)は、羽柴秀長に仕えて3500石となっています。
しかし、1600年、関ケ原の戦いで石田三成に協力したため、改易・所領没収となりました。
1615年、大坂の陣では、豊臣秀頼の要請に応じて大坂城に入ったようですが敗北となり、のち松平家に仕えたと言います。

他の玉置氏としては、玉置直和の次男に玉置直俊(たまき-なおとし)。
玉置家四天王としては、紀伊・平ヶ城主の小川与市、久保氏、松本館主の松本氏、鏡ヶ城主の古久保氏がいます。


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なお、紀伊・手取城はなかなか広大な山城であり主郭一帯は公園として整備されているとの事です。
また、手付かずだったようで、保存状態も良いみたいです。

交通アクセスですが、JR紀勢本線の和佐駅から徒歩約1時間となります。
クルマの場合、主郭のすぐ下まで農道が通っているとのことです。
当方のオリジナル関西地図では、その登城路入口をポイントしています。
下記がその入口です。

紀伊・手取城

ただし、道が細いので軽トラが向かってきたら厳しいようです。
農作業はまぎれもなく生活するための仕事ですので、よそ者が邪魔をしてはいけないと存じております。
私の場合、城攻め(登城)も仕事の一環ではありますが、はた目から見れば、そのように見て頂けないため、単なる興味本位にうつるでしょう。
そのため、地元の皆様に、ご迷惑をかけてはいけないと思い、このように登城を控えさせて頂く判断もしています。
ただし、現地に行ってみないと、つかめない感覚や情報もあります。
私の場合、見たいから訪れるのではなく、紹介させて頂き、たくさんの人に知ってもらいたいのです。
そのため、近くの雰囲気だけでも確認すると言う事で、今回もご迷惑にならない範囲で近くまで寄らせて頂きました。
賛否両論あるかと存じますが、ご覧頂いている皆様には、趣旨をご理解を賜りますと幸いです。

紀伊・亀山城 湯川氏の本拠地である御坊の詰城
湯川直光と湯川直春 南紀御坊で湯川衆を率いた武田一族?


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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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