常陸・山方城(やまがた-じょう)は、茨城県常陸大宮市山方にある標高170m、比高70mの山城で、御城館とも言いますが地元の方は御城と呼んでいるようです。
久慈川のすぐ脇にある小高い山に築かれており、空堀と土塁が残されているようです。
南郷街道が通る交通の要所であり、現在もJR水郡線と国道118号が城跡の真下を山方トンネルにて通過しています。
最初の築城は不明ですが、山方氏の居城でした。
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常陸守護で常陸・太田城主の佐竹氏11代・佐竹義盛が1407年に死去すると養子に迎えていた佐竹義人(上杉義憲)が家督を相続します。
この佐竹義人(さたけ-よしひと)は、山内上杉家である関東管領・上杉憲定の次男で、佐竹義盛の娘・源姫(もとひめ)と結婚(婚約?)していますが、家督を継いだ時は龍保丸と言い、まだ8歳だったと言います。
しかし、佐竹一族は多いと言う事もあり、山入家の佐竹与義を筆頭に、稲木義信、長倉義景、額田城主・額田義亮ら庶流の多くは快く思わず反発しました。
そのため、鎌倉公方・足利持氏が佐竹義人(佐竹義憲)の後ろ盾になると、美濃の山方郷から上杉一族の山方盛利(山方能登守盛利・上杉盛利)を派遣し、居城としたのがこの山方城と言う事になります。
この佐竹内部での争い「山入の乱」は約100年続くことになります。
なお、山方盛利は鎌倉に赴いた際に、高梨某(高梨氏の名前は不明)を争い事から殺害したため、上杉憲定を頼ると武蔵国にて匿われたとあります。
その後も代々、山方氏が山方城主になっていたようですが、詳細は不明です。
文明年間(1469年~1487年)になると佐竹氏14代・佐竹義治の5男・佐竹政義(東政義)が一時、山方城に入ったともあります。
そのため、山方氏は、南西にある龍ヶ谷城に移ったそうです。
この佐竹政義は、常陸・太田城の城東に屋敷を与えられたため「佐竹東家」の祖となり、同じ兄弟の佐竹義信は太田城の北の常陸・久米城に住んだので、佐竹北家と呼ばれたと言う事になります。
秋田県知事・佐竹敬久さんは佐竹北家の21代当主です。
ちなみに、佐竹義里が佐竹南家の祖、常陸・小場城の小場義成が佐竹西家と言う事になります。
1591年3月、佐竹義宣が太田城から水戸城に移ると、佐竹義久(東義久)は豊臣秀吉から直接鹿島郡・真壁郡6万石を与えられ、佐竹氏最大の一族となっています。
そして、住まいとしては、水戸城の東にある武熊城に移ったため、御城(山方城)は廃城になったともされます。
ただし、伊達政宗を警戒する必要性はまだありましたので、関ケ原の戦いまで、山方城は機能していたのではないかと考えますので、1602年に佐竹氏が久保田城に移った際には廃城になったと考えるのが妥当でしょう。
しかし、佐竹氏は一族・庶流も大変多く、その諸城は、規模が大きなものが多いです。
恐らく、一族ではありますが、独立性も高く、家臣らを城内に住まわせていた可能性があるからでしょう。
その最終系が、角館武家屋敷なのかなと言う感じを受けます。
資料館として模擬天守(御城展望台)が建立されていますので、雰囲気はバツグンです。
ただし、模擬ですので、実際には天守は無かったと、当然考えられます。
なお、西の方角には詰めの城が高館山にあったと言いますので、山方城は麓からは比高30mほどであり防御も不安な事から、単なる館として機能させた可能性もあります。
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常陸・山方城への交通アクセス・行き方ですが、JR水郡線「中舟生駅」から徒歩10分と近いです。
麓ではありますが、無料の駐車場が完備されています。
駐車場がある場所は、当方のオリジナル関東地図でもわかるようにしておきます。
その駐車場脇にある皆沢川には「嘆願橋」がありますが、これは、城内に入れなかった庶民は、この橋で嘆願したからとなります。
・小場城 戦国期に佐竹氏を支えた佐竹西家の居城
・月居城(袋田城) 袋田の滝近くにある要害性抜群の山城
・常陸・太田城(舞鶴城) 戦国大名に発展した佐竹氏の本拠地
・額田城 東京ドーム22個分 額田照通の本拠地
・佐竹義宣 なんとか戦国時代を乗り切った律義者の世渡り
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