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黒井城【続日本100名城】赤井直正(萩野直正)の戦国と春日局の誕生地

黒井城

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黒井城とは

黒井城(くろいじょう)は、兵庫県丹波市に連郭式山城で、別名は保月城(ほげつじょう)、保築城(ほづきじょう)とも言います。
標高356mとなる猪ノ口山の三方尾根伝いに曲輪があり、比高は220mありますので、結構な山城で要塞化されています。
国の史跡になっている他、続日本100名城にも選出されています。

山頂の本丸部分は野面積みの石垣になっており、囲んだ中腹には三段曲輪・太鼓の段・石踏の段・西の丸・東出丸などの曲輪が配置されていると言います。
また、尾筋には千丈寺・龍が鼻・的場・百間馬場などの砦跡もあり、いたる所に曲輪跡・土塁・堀切りなどで防御が施されている模様です。


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最初の築城としては、南北朝時代の建武年間(1334年~1338年)に、箱根・竹ノ下の戦いで戦功があった赤松貞範が、足利尊氏より春日部荘などを与えられて、築城したとされます。
この赤松貞範(あかまつ-さだのり)は、1346年に姫路城を築城したことでも知られますが、子孫は春日部荘を相続しました。
その後、赤松義則(あかまつ-よしのり)のときには、播磨国・備前国、美作国を領した有力守護大名にまで発展しています。

黒井城

そのあと、赤松氏の宗家は勢力を弱め、同じ赤松庶流である置塩城の赤松政則が、管領・細川勝元の後ろ盾を得て、播磨国・備前国・美作国の三国の守護大名となります。

しかし、丹波の葦田氏・赤井氏と同族である荻野氏が黒井城主となり、文亀年間(1501年~1503年)には荻野和泉守、そして、荻野秋清(荻野伊予守秋清)らが城主として見受けられます。
なお、荻野伊予守秋清は近くの留堀城を館(屋敷)にしていたとされます。

しかし、赤井時家(あかい-ときいえ)が波多野氏に加勢して丹波に復帰した際と考えられますが、勢力が大きかった萩野氏は後屋城主・赤井時家の次男・才丸を人質として朝日城にて預かっています。
ただし、下剋上の世の中でして、成長した赤井直正(萩野直正)は、1554年に外叔父・荻野秋清を殺害して黒井城を奪い、丹波の赤鬼と称されるようになりました。
赤井直正は、荻野秋清に年初の挨拶に向かったところで荻野秋清を暗殺したとされ、悪右衛門直正とも呼ばれています。(諸説あり)

悪右衛門直正

赤井直正(あかい-なおまさ)は、能力高かった武将で、横山城(福知山城)の塩見頼勝を攻めるなど勢力を拡大し、本家のが赤井忠家(赤井家清の子)を補佐しました。
1565年には、松永久秀の弟・松永長頼(内藤宗勝)を和久城近くで討ち取り、丹波から反・細川晴元の勢力を一掃し、但馬国と丹後国へ勢力を伸ばしました。
12万石ともいわれる経済力には、生野銀山を支配していたからともされます。


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ただし、織田信長が京に上ると、1570年3月、赤井本家の赤井忠家と共に赤井直正は織田家に臣従しています。
1571年、侵攻してきた山名祐豊を破って、此隅山城竹田城を占領したともありますが、やがて織田家が丹波を狙うと、次第に、反織田勢力に取り込まれて行きました。
そして、1575年10月、赤井直正は吉川元春に味方した太田垣輝延の竹田城を攻めていましたが、明智光秀が竹田城を攻略すると織田家から寝返り黒井城に戻ります。
すぐに明智光秀は黒井城を包囲しますが、その包囲軍に加わっていた八上城主・波多野秀治に裏切られて、黒井城の戦いとなり、明智勢は敗走しました。
赤井の呼び込み戦法とも言われています。

赤井直正

その後、羽柴秀吉の家臣・脇坂安治らの降伏勧告も受け入れず、1577年10月、明智光秀は細川藤孝細川忠興の援軍を得て、第2次・黒井城の戦いとなりました。
その籠城のさなか、天正6年(1578年)3月、赤井直正は病死しました。享年50。
嫡男・赤井直義はまだ9歳だったため、叔父の赤井幸家が後見を務めましたが、討死するなどして求心力を失い、波多野秀治の八上城も陥落します。
そして、1年の籠城で飢餓状態になるも、毛利家の援軍も来ず、1578年6月1日、赤井氏は開城・降伏し没落しました。

そのあと、黒井城主になったのは、明智家の重臣・斎藤利三です。

黒井城

斎藤利三の娘・お福(春日局)は、黒井城下で生まれました。
1582年、本能寺の変のあとには、羽柴秀長、そして羽柴秀吉に従っていた堀尾吉晴が黒井城を任されています。

1584年、羽柴秀吉と徳川家康が、小牧・長久手の戦いで争った隙を突いて、赤井直正の弟・赤井時直を盟主とした赤井氏の残党が黒井城と余田城(市島町)を奪取し、徳川家康に一時通じたともされます。
その後、黒井城の歴史は不明です。
1585年に、堀尾吉晴は佐和山城へ転封となったため、黒井城は廃城と推測できます。

黒井城

丹波・興禅寺

丹波の興禅寺(こうぜんじ)は斎藤利三が使用した下館跡となり、国の史跡です。

丹波・興禅寺

1579年にお福(春日局)は生まれました。

春日局・出生地

お福(春日局)は、3歳までここで育ったと言う事になります。

春日局

丹波国氷川郡春日井庄で生まれたので、春日局と名前の由来と言う事になります。
下記は境内にある春日局、腰かけ石です。

春日局、腰かけ石

下記は、丹波・興禅寺の境内案内図です。

丹波・興禅寺の境内案内図

本堂の左奥に進むと、春日局、産湯の井戸がありました。

春日局、産湯の井戸

楼門前には水堀の七間堀(長さ80m)と、高い野面積みの石垣があり、まさに城の一部とも言える構えを見せています。

丹波・興禅寺

あと、黒井駅前に行くと、小さいですが、春日局の子供の頃の銅像があります。

お福像

なお、京都に逃れた赤井直義(あかい-なおよし)は、1610年に赤井時家の4男である赤井直之の嫡男・山口直友(やまぐち-なおとも)の口添えで、藤堂高虎に仕官します。
そのため、伊賀・上野城の城下町には武家屋敷「赤井家住宅」があります。


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黒井城への行き方

黒井城への交通アクセスですが、JR福知山線「黒井駅」から徒歩約10分で登城口となります。
麓に無料の駐車場が完備されているのはありがたいです。
その駐車場から登ると、所要時間は本丸まで片道30分~40分となります。

黒井城の登城口

本丸からの展望は360℃で、竹田城に勝るとも劣らないものだそうです。
軽い登山となりますので、トレキングシューズ、トレッキングポールなど、装備は万全で。
また夏場は熱中症対策と虫対策が必要です。
大阪空港からレンタカーを借りて訪問させて頂きましたが、雨天のため登城は断念しています。

日本100名城のスタンプがある場所は春日住民センターで、朝8時30分から22時まで(12月29日から1月3日は休館)に捺印可能です。
また、道の駅「丹波おばあちゃんの里」には、登城ルートなども掲載されているレベルの高いパンフレットが設置されているようです。

黒井城の駐車場がある場所などは、当方のオリジナル地図でもわかるようにしてあります。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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