兵庫県

此隅山城 山名氏が最盛期を迎えた本拠地

此隅山城




此隅山城(このすみやま-じょう)は、兵庫県豊岡市の出石にある山城で、子盗城、此隅城、鶴賀城、子守城とも呼ばれます。
標高は140m、比高130mとなかなか堅固や城です。
なお、有子山城跡と合わせて「山名氏城跡」と言う名称にて国の史跡に指定されています。





最初の築城は、南北朝時代の文中年間(1372年~1374年)とされ、1372年前後に山名時義が此隅山に築城しました。

山名氏は名門・新田義重の庶子である新田三郎義範(または新田太郎三郎とも?)が、上野国多胡郡(八幡荘)の山名郷(群馬県高崎市山名町)を本貫とし、山名三郎と名乗ったのが始まりです。
南北朝時代には、惣領である新田義貞とは正反対で、足利尊氏に味方し、1337年に山名時氏が伯耆国守護となりは田内城打吹城を築いていました。

1384年からの全盛期において、山名時義は11ヶ国(山城・和泉・紀伊・丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・美作・隠岐・出雲)の守護を勤めます。
日本全国66ヶ国のうち11ヶ国を領したことから「六分の一殿」と呼ばれる程の一大勢力となりました。

此隅山城

その後、家中で争いなどもありましたが、1467年、応仁の乱となると、領国からの軍勢2万6000が、但馬・此隅山城に終結して、山名持豊(山名宗全)は京都へ出陣し、細川勝元と戦いました。
城域は但馬最大規模で、山麓には宗鏡寺、願成寺、大手門、御屋敷などの地名もあり、かつて城下町があったことも分かります。

山名祐豊

山名政豊のあとを継いだ山名致豊のときには、垣屋氏に城之崎城(豊岡城)を制圧されたため、九日市にあった但馬守護所を放棄し、て守備力が高いの此隅山城の中腹に移しました。
また、月山富田城尼子経久、備前守護代・浦上村宗らの圧迫を受け、山名誠豊の時代には、太田垣氏らの傀儡(かいらい)のような立場となりました。
1504年夏には、垣屋続成が、山名到豊と田結庄豊朝が籠城した此隅山城を攻めています。

此隅山城

しかし、山名祐豊が登場すると垣屋氏・太田垣氏・田結庄・八木氏ら但馬の有力国人衆を次々と制圧し、但馬だけでなく因幡・鳥取城の山名誠通も討ち取り、地位を失いつつあった守護大名・山名氏を但馬と因幡の戦国大名へと復活させました。
そして、此隅山城を改修し、大要塞として守りも固めています。

此隅山城

ところが、織田信長が台頭しており、1569年には、羽柴秀吉が此隅山城を攻撃して落城し、山名祐豊は和泉国の堺まで逃れました。
山名祐豊は、堺の豪商らの資金を借りて、1574年、但馬に復帰すると、より急峻な有子山城を改造して本拠としたため、此隅山城は使われなくなりました。





登城口は、駐車場がある、いずし古代学習館の裏からと、袴狭登山口などいくつかあります。
学習館の真裏から入山すると本丸までは約30分の登りですが、途中、ロープが張られている直登もあるようです。
此隅山城の居館は西麓にある「御屋敷」と呼ばれる場所にあったと伝わります。

交通アクセス・行き方ですが、JRと京都丹後鉄道の豊岡駅より全但バスにて、島バス停下車となります。
駐車場は前述したとおり、いずし古代学習館の無料駐車場が便利です。
但馬・出石城とセットでどうぞ。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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