柏原陣屋(かいばら-じんや)は兵庫県丹波市柏原町にある、柏原藩の藩庁跡で、国の史跡となっています。
織田信長の弟・織田信包(おだ-のぶかね)が大阪城の豊臣秀吉の御伽衆となっていた1598年に、3万6000石にて丹波国氷上郡柏原に入りました。
御伽衆(おとぎしゅう)と言うのは、簡単に申し上げますと「話し相手となる側近」と言う事になります。
豊臣秀吉の普段の話し相手と言う訳ですが、この頃、金森長近、織田有楽斎、小寺休夢、山岡道阿弥、滝川雄利、織田信雄、宮部継潤、古田織部、板部岡江雪斎、山名豊国、足利義昭、六角義賢、六角義治、佐々成政、細川昭元など、たくさんの老練武将が御伽衆になっていました。
時には戦術や政治に関しても助言を求められたりしますので、それなりの知識や豊富な体験がないと務まらない役目でもあります。
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織田信包は、豊臣秀吉のとっては元主君の弟ですので、ないがしろにはできません。
しかし、力を付けられると、豊臣政権も危ういと言う事で、そばに置いておくと言う事もあったと存じますが、豊臣秀吉が死去する直前に、柏原行きを命じていますので、跡取りの豊臣秀頼のことを心配しての人事異動だったのでしょう。
こうして、伊勢・安濃津城(津城)から移動した織田信包(56歳)は、1600年、関ケ原の戦いにて、石田三成に協力して丹後・田辺城を攻撃するなど期待に応えました。
徳川家康も、さすがに織田信長の弟を処罰する訳にはいかず、所領は安堵され、織田信包は大坂城にて豊臣秀頼を補佐しますが、大坂冬の陣の前となる1614年に死去しました。
家督は3男・織田信則が継承し、丹波柏原藩の第2代藩主となっています。
第3代藩主・織田信勝は、跡継ぎがいないまま、死去したため、一時廃藩となりました。
その後、織田信長の次男・織田信雄の子孫となる織田信休が、大和・宇陀松山城下の松山陣屋から入ると以後、明治維新まで続きました。
地元では、織田信包からの3代を「前の織田」、織田信休からの10代を「後の織田」と呼んで区別しているそうです。
現存する陣屋建物としては、長屋門が当初の建物として残っています。
表御殿の玄関は1820年(文政3年)に再建された姿となります。
柏原藩陣屋跡としては、現在は当時の約1/5の面積になるそうです。
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また、陣屋の向かいには丹波市立柏原歴史民俗資料館があり、織田家に伝来する武具・古文書などが展示されています。
さらに近隣には、織田信休などが眠る織田家の廟所もあるようです。
陣屋は有料拝観で、開館時間は朝9時~17時(入館は16:30まで)となっています。
休業日は毎週月曜日(祝日の場合はその翌日)と年末年始です
交通アクセスは、JR柏原駅から徒歩で約10分となります。
車の場合には、舞鶴若狭自動車道丹南篠山IC・春日ICから約15分で、観光案内所の駐車場(15台)が利用可能です。
田ステ女
柏原藩陣屋を調べさせて頂いている途中で「田ステ女」と言う言葉に出くわしました。
なんでも、田捨女とも書き、読み方としては、でん-すてじょ、または、でん-すてめと言うそうです。
田ステ女は、女性の名前で、江戸時代の1634年に柏原藩の庄屋で、代官も務めた田季繁の娘として生まれたそうです。
姓名が「田」で、名が「ステ」と言うことになるみたいですので、田すてさんですね。
女とついているのは、田すてさんは、俳句を詠んだ女流歌人だったそうで、その女流歌人の名に添える接尾辞が「女」と言う事かせ、田ステ女と言う名称になっています。
柏原陣屋跡の向かいには、田捨女像もありました。
雪の朝 二の字二の字の 下駄のあと
と詠んだ句が有名らしいのですが、わずか6歳の頃に作った俳句だそうです。
柏原町歴史民俗資料館には、田ステ女記念館が併設されており、今でも、皆様に親しまれているようです。
丹波・黒井城とセットでどうぞ。
・織田信包(織田三十郎信包、織田上野介信兼)~信長の弟としての生涯
・黒井城 赤井直正(萩野直正)の戦国と春日局の誕生地
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