備後・大可島城(だいがしまじょう)は、標高10mの岬にある水軍城で、鞆の浦(とものうら)にあります。
瀬戸内海国立公園の鞆の浦は、古くから瀬戸内海の潮待ちの港として知られ、また万葉集にもうたわれた風光明媚な場所です。
すぐ近くの鞆城よりは古い時代から城郭があったようで、1342年に岡部出羽守が築いたと言う伝承があります。
大可島というくらいですので、昔は今のように陸続きではなく「島」になっていました。
この1342年に、四国の伊予・仏殿城が、北朝の細川頼春によって攻撃されており、救援に赴いた南朝方の伊予衆は、燧灘(ひうちなだ)で北朝方に阻止されたと言います。
仏殿城(川之江城)の土肥義昌が討たれて落城すると、敗れた伊予衆は折からの突風にあって、鞆に流れ着き、再起を図り築いたのが大可島城と言う事になります。
しかし、伊予の世田山城と笠松城が落城の危機に瀕すると、伊予衆の大半が本国に帰ってしまいます。
そして、1342年5月には、鞆沖大海戦が十数日間もに及び、大河島を中心に鞆の浦が戦場となり、小松寺を始め古寺や街並みは焼失しました。
戦力が低下する中、残っていた桑原重信(桑原伊賀守重信)の大可島城も北朝に攻略され、桑原一族は滅亡します。
円福寺の階段わきにあるいくつかの五輪塔は、桑原伊賀守一族の墓となります。
下記写真にある右側の白壁の向こうが墓所です。
桑原伊賀守一族の墓は下記のようになっていました。
丁重にお参りさせて頂きました。
1349年には、足利尊氏の弟・足利直義の養子である足利直冬が、四国探題として赴任した際に、大可島城に約半年いたと言います。
当然、鞆港を防衛する目的の城(砦)ですが、戦国時代までは、主に水軍基地でした。
下記は、鞆城から見た、大可島城方向です。
村上水軍が台頭してくると、村上水軍の因島村上氏の一族が大可島城を拠点に、海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上権をにぎっています。
足利義昭が毛利輝元を頼った際には、村上亮康が関船で出迎え、警護役として足利義昭の直臣扱いとなり、毛利氏と足利氏の両方から知行を得て大可島城に入ったようです。
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関ヶ原の戦いのあと、広島城主となった福島正則が、鞆城(ともじょう)を大改修した際に、鞆城の城域を広げたことから陸続きとなりました。
大可島城跡にある現在の円福寺は、真言宗で1601年頃に建立されたようです。
なお、江戸時代には遠見番所が置かれたようで「舟番所」が現在ありますが、訪問時は危険なためか、立入禁止になっていました。
この舟番所は、最初の鞆奉行・萩野新右衛門重富が設置したもので、船の出入りや安全を管理・監督する事務所と言う事になります。
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