水原代官所とは
越後・水原代官所(すいばら-だいかんしょ)は、新潟県阿賀野市外城町にあります。
現在、代官所として復元されていることから、主な呼ばれ方は水原代官所と言う事になりますが、かつては水原館、水原城があったと考えられます。
最初の築城年代は不明ですが、鎌倉時代に伊豆・大見郷(伊豆・大見城)を発祥とする鎌倉御家人・大見家秀の子・大見実景が、城氏滅亡のあとに越後・白河庄の地頭職となります。
大見家の惣領家は白河荘の上条の大部分と山浦四ヶ条を領し、のちに下条水原の地を庶家の水原氏が知行しました。
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南北朝の動乱のあと、1398年に水原氏の次男が山浦四ヶ条に入って、惣領家は安田氏を称し、水原の庶家は水原氏を名乗るようになったようです。
このように水原を領すると水原館を築いたとされ、揚北衆(あがきたしゅう)の一員となりました。
戦国時代になると、1533年に、越後・上条城主の上条定憲が挙兵した際、水原政家は長尾為景の元を離れて上条氏に味方しています。
水原政家のあとの水原隆家は、長尾景虎(上杉謙信)のもと、川中島の戦いなど、数々の戦いに従軍しています。
ただし、この頃の水原家に関しては、史料も乏しくよくわかりません。
御館の乱の恩賞に不満で、反乱を起こした新発田重家を鎮圧するため、上杉景勝みずから新発田攻めに出陣しすると、水原満家が軍奉行を務めています。
その撤退時、新発田重家の追撃を受け、放生橋付近にて殿を務めていた水原満家は、菅名綱輔、上野九兵衛らともに奮戦のすえに討死しました。
これにより、大見水原氏は断絶しました。
そして、水原城は、新発田勢の細越備前守道信(細越将監)が占拠していたため、1584年8月18日、上杉勢の藤田信吉ら8000が攻めています。
藤田信吉は右股を負傷するも、細越道信(細越将監)を討ち取りました。
しかし、水原城は落城しなかったようで、水原城の包囲に、笹岡城の酒井新左衛門が置かれています。
1585年6月、上杉景勝は笹岡城、雷城の丸田周防等に命じて水原城を攻めさせましたが、水原城将の剣持市兵衛、梅津宗三らがよく防いだとあります。
そのため、直江兼続らは、梅津宗三の身内である梅津伝兵衛を内通させたため、9月2日、梅津伝兵衛が水原城に火を放ちました。
剣持市兵衛、梅津宗三は新発田城へと退却し、水原城には上杉景勝の命で魚沼郡の浦佐城主の子、大関常陸介親憲が水原城に入って名跡を継いだようです。
水原親憲(すいばら-ちかのり)は、3414石を知行しています。
1598年、上杉家が会津に移封となると、水原親憲は猪苗代城に入り、5500石となりました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、出羽合戦にて最上義光と戦い、長谷堂城からの撤退戦において鉄砲隊200名を率い、上杉勢の撤退を成功させています。
1614年、大坂冬の陣でも、今福・鴫野の戦いでも、木村重成や後藤又兵衛らに苦戦していた、佐竹義宣を鉄砲隊で救っており、徳川秀忠から感状を受けています。
ただし、このときの感状の宛名が、水原ではなく「杉原」となっていたことから、名を杉原親憲と改めたと言います。
江戸時代になって、1746年には幕府直轄地となり、水原城跡に水原代官所が置かれました。
水原代官所の管轄地は阿賀野市をはじめ、新潟市北区・新発田市・胎内市・聖籠町・岩船郡の一部など複雑に分布していたようで、石高は6万石~10万石だったとのことです。
初代代官としては、内藤十右衛門が着任しました。
戊辰戦争により、1868年に会津藩預かりとなるまで、水原代官所は続いています。
現在、復原した水原代官所が有料公開されています。
お白州などにも人形が飾られており、江戸時代の役所の雰囲気がよくわかります。
営業は4月~11月が朝9時30分から午後4時まで。
冬期の12月~3月は、朝10時から午後4時までとなります。
休館日は、月曜日(祝日と重なる場合は開館、翌日休館)と年末年始(12月28日から1月4日)です。
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交通アクセスですが、JR羽越本線「水原駅」より徒歩20分となります。
無料駐車場21台完備で、隣にはふるさと農業歴史資料館などもあります。
近くの瓢湖は白鳥渡来地として有名です。
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