三戸城(さんのへじょう)は青森県三戸郡三戸町梅内にある標高130mの連郭式山城で、留ヶ崎城(とめがさき)とも言います。
比高は90mですが、現在、城山公園となっていて山頂部までの道路と大きな駐車時があり、訪問しやすい山城です。
日本の歴史公園100選に選ばれています。
以前から砦としての機能はあったと推測しますが、戦国時代・南部晴政のときに、三戸南部氏の本拠地・聖寿寺館(本三戸城)が、1539年に家臣・赤沼備中が反旗を翻し、聖寿寺館に放火して焼失します。
そのあと、南部晴政は館を転々としたようですが、最終的に留ヶ崎城を整備して本拠地にしたと伝わります。
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もっとも、戦国大名化する過程で、三戸南部氏としては聖寿寺館は相応しくなく、一族の統率など組織の統制をはかるためにも、三戸城への移転は必要不可欠であったと推測します。
徳川家康も、たくさんいる松平一族の中で、自分こそが宗家だとアピールする意味もあり、岡崎城を整備しました。
もっとも、徳川家康は更に宗家は自分だけだと言う事で、松平からあえて徳川と姓を変えて、地位を不変のものとした訳です。
南部晴政も、同じように姓までは変えませんでしたが、宗家に相応しい本城として三戸城を整備し、上洛も果たして宗家の地位を確立しました。
下記は三戸城の大手門跡の門住稲荷で、大手口守護のために祀られた神社となります。
こうして、留ヶ崎城は三戸城と呼ばれるようになり、もともと三戸城と呼ばれていた聖寿寺館は近くに寺の名前から区別して、聖寿寺館、もしくは本三戸城と呼ばれるようになりました。
1590年、大浦為信よりは少し遅れましたが、26代・南部信直は豊臣秀吉の小田原攻めの際には参陣し、南部七郡(糠部・岩手・紫波・稗貫・和賀・閉伊・鹿角)の領有が認められています。
それに伴い三戸城は、近代的城郭へ大改修され、石垣や家臣らの居館、そして、三層三階の御三階櫓(天守)が設けられたと考えられています。
本丸部分ですが、山城にしては結構広いと申しましょうか、平坦な場所が広大です。
本丸を中心に大手となる南東側に重臣の屋敷、裏手の北東側には直臣の屋敷が配されました。
例えば、七戸城には宝泉館(ほうせんだて)がありますが、東北での「館」(だて)と言うのは、城や曲輪の部分を言いますので、三戸城にある館は、郭・曲輪と言う意味になります。
現在の天守は、昭和42年(1967年)に作られた「温故館」という模擬天守になっています。
平成元年(1989年)には、綱御門が復元され、歴史民俗資料館もある三戸城跡県立城山公園になっています。
綱御門は、般若心経を読み、城の安泰を祈願した「綱」を揚げている門と言う事になります。
しかし、天正19年(1591年)に南部信直とは家督争いをしていた、一族の九戸城主・九戸政実が反乱を起こします。
その時、南部信直は豊臣秀吉に援軍を要請したため、総大将・豊臣秀次、軍監・浅野長政、蒲生氏郷といった奥州仕置の豊臣勢が派遣され、九戸政実の乱を鎮圧しました。
そして、蒲生氏郷が九戸城と城下町を復興させてから、退いています。
ただ、その豊臣勢6万でも、強固な九戸城への力攻めはできなかったと言う事で、南部信直は三戸城から九戸城へ本拠を移しました。
そのため、三戸城は御古城と呼ばれ、城代が置かれています。
なお、1597年には不来方(盛岡)に城を新たに築城して、南部氏の居城は盛岡城へと更に移りました。
その後三戸城は、使われなくなったようですが、江戸時代の貞享年間(1684年~1687年)からは、麓に三戸代官所が設置されたようです。
ゴールデンウィーク期間には桜が満開に咲き乱れ、ラーメン・クレープなどの屋台も登場しますが、秋の紅葉も良さそうです。
下記は、心を込めて撫でると子宝にめぐまれるという「子持ち石」で、本丸の三戸城模擬天守の脇にありました。
下記は三戸城の東端となる、鶴池・亀池は、搦手にありますが、水堀兼籠城時の水がめと言った用途と推測できます。
三戸城からの眺めは下記のような感じです。
上記写真の中央、丘陵の中腹あたりが、旧城の聖寿寺館となります。
下記は、南側から三戸城跡を撮影したものです。
三戸城への行き方・アクセスですが、青い森鉄道・三戸駅より南部バスに乗り「病院前」または「公園前」で下車、徒歩15分の登りとなります。
三戸駅から歩くと本丸まで約1時間掛かります。
駅からタクシーだと10分です。
八戸自動車道・一戸ICICより国道4号線経由25㎞、約40分となります。
山の上の公園までの道路は細いですが、無料の城山公園駐車場があり、夜景もキレイだと言う事です。
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三戸城の観光所要時間は約30分~50分といったところでした。
青森には、一戸から九戸と言うように「~戸」と言う地名がありますが、これは古代律令国家の統治が及んだとき、名馬を産する牧場につけられた番号であったとも、蝦夷(エミシ)対策の砦があった場所を順番にした名前だったともされています。
また四門九戸(しもんくのへ)の制にて、糠部郡を東西南北の四つの門と、一から九までの「戸」(あるいは部)に分け、糠部郡の主な地域を一戸から九戸に分画、四方の辺地を東門、西門、南門、北門と呼んだとも考えられています。
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