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名古屋城とは
名古屋城(なごや-じょう)は、愛知県名古屋市にある梯郭式平城で、日本100名城、日本の歴史公園100選、国の特別史跡に指定されています。
別名も多く、名城(めいじょう)、金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)、金城(きんじょう)、柳城、亀屋城、蓬左城、楊柳城とも呼ばれます。
名古屋城が築かれる前には、那古野城がありましたが、しばらく廃城になっていましたので、その跡地に築いたと言えます。
現在の名古屋城のニの丸付近にあった那古野城に関しては、別ページにてご紹介しています。
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戦国時代、織田信長が台頭すると、尾張の中心地は清須城(清洲城)になりました。
豊臣秀吉の時代には、福島正則が清洲城主24万石となっています。
1600年、関ヶ原の戦いのあと、福島正則は安芸・広島城に加増移封となり、尾張藩52万石として、徳川家康の4男・松平忠吉が清須城に入っています。
その後、甲府城から徳川家康の9男である徳川義直が、47万2344石にて清洲城に入りました。
しかし、大坂城の豊臣秀頼への対応と、水害が多く地震で液状化した清洲から本拠を移すことになります。
そして、那古野城の跡地に名古屋城を築城することが1609年に決定しました。
徳川家康の命による「天下普請」です。
天下普請(てんか-ふしん)と言うのは、江戸幕府が全国の外様大名などに命令して、工事を担当させた(その工事費も負担させた)土木工事のことを言います。
名古屋城は名古屋台地の上にあり、築城前には、台地縁の西面と北面は、切り立った崖で、崖下は低湿地になっていました。
普請奉行は滝川忠征、佐久間政実ら5名です。
作事奉行は大久保長安、小堀政一ら9名。
縄張(設計)は、普請奉行のひとりでもある牧長勝です。
石垣は諸大名が分担して工事を行いました。
最も高度な技術を要する天守台の石垣は普請助役として加藤清正が担当しています。
下記は名古屋城近くの名城公園彫刻の庭にある加藤清正の銅像です。
天守の建物は作事奉行の小堀政一、大工頭には中井正清と伝わり、1612年(慶長17年)までに大天守が完成しました。
天守の高さは55.6メートル(天守台19.5メートル、建屋36.1メートル)であり、現代のビルと比較しますと18階建ての高層建築に相当します。
名古屋城築城普請助役としては、加藤清正以外では、寺沢広高、細川忠興、毛利高政、生駒正俊、黒田長政、木下延俊、福島正則、池田輝政、鍋島勝茂、毛利秀就、加藤嘉明、浅野幸長、田中忠政、山内忠義、竹中重利、稲葉典通、蜂須賀至鎮、金森可重、前田利光の外様大名がいます。
それぞれ石垣工事を行い、延べ558万人を動員して、僅か1年足らずで石垣が完成しました。
そして、城下町の清洲からの移転は「清洲越し」(きよすごし)と呼ばれ、慶長17年(1612年)頃から元和2年(1616年)までかかったとされます。
家臣や町人だけでなく、社寺3社110か寺、清須城小天守も移築されました。
町の名前も清洲から名古屋へ移っており、移転した町人は原則として同じ名前の町に住んだと言います。
下記は金シャチ横丁にある現在の町並みです。
これにより、名古屋という大都市が誕生しました。
現在の名古屋城は「名城公園」として整備されています。
本丸を中心に南東に二の丸、南西に西の丸、北西に御深井丸があり、南には三の丸がありました。
下記はニノ丸になります。
下記は大手門となります。
下記は、名古屋城・西南隅櫓(本丸未申隅櫓)です。
本丸辰巳隅櫓、本丸未申隅櫓、本丸南二之門、旧二之丸東鉄門二之門(現在は本丸東二之門跡に移築)、二之丸西鉄門二之門、御深井丸戌亥隅櫓の6棟が現存しており、国の重要文化財に指定されています。
下記は本丸への入口となる、名古屋城・表二之門です。
名古屋城・西鉄御門(二之丸西鉄門二之門)は、南の外側の方にあります。
本丸辰巳隅櫓は名古屋城・東南隅櫓です。
下記は、本丸東二之門跡にある旧二之丸東鉄門二之門。
下記は、御深井丸戌亥隅櫓となりますが、木の枝で撮影は困難でした。
本丸にあった五層五階地下一階の大天守は、太平洋戦争にて名古屋はアメリカ軍の空襲を受けて焼失しました。
江戸時代初期の1612年(慶長17年)に完成した天守は、マグニチュード8.0の濃尾地震(明治24年)にも耐え、333年間アッパレでしたが、焼夷弾により火災が発生したと言います。
そのため、戦後の復興では、火事でも焼けないようにと、鉄筋コンクリートで天守が再建されました。
しかし、老朽化が進み、耐震性が低い名古屋城の天守閣は、2018年5月6日を持って閉館しました。
最後は3時間待ちの長蛇の列になったと報道もされていました。
天守閣は取り壊したあと、再建されます。
今度は、昔の資料から忠実に復元する「木造」の天守閣でして竣工時期は、2022年12月を予定しています。
そのため、新しい天守ができるまでは、天守閣は工事中で、総工費は500億円とも言われています。
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このほか、上記にてご紹介致しましたとおり、本丸には西南隅櫓、東南櫓が現存しています。
そして、小天守の脇には、本丸御殿が復元されています。
木造復元の名古屋城・本丸御殿は、内部が一般公開されています。
本丸御殿を使った徳川将軍は、徳川秀忠、徳川家光、徳川家茂の3人で、上洛の途中に宿泊しました。
将軍の間は、とても豪勢な造りにて再現されています。
ちなみに、1618年以降となりますが、藩主が居住したのは二の丸御殿であり、豪勢な本丸御殿は、将軍さま専用と言うことになりますので、普段は使われていなかったと言うことになります。
二の丸跡に那古野城址の碑が建っています。
名古屋城と言えば「金の鯱」(しゃちほこ)が有名です。
1612年に名古屋城天守が完成したときからあり、当時の金鯱は一対で慶長大判1940枚分(純金215.3キログラム)もの金が使用されたとされています。
高さは約2.74メートルです。
江戸時代には、大凧に乗って金の鯱を盗もうとした柿木金助(かきのき-きんすけ)の伝説もあります。
ただし、財政難から、鯱の「金」を1730年、1827年、1846年の3度、一部使用したようで、最後には金の光沢が無くなったとも言います。
復元された現在の金のシャチホコは、金88キログラム使用となっています。
下記は、清正石と呼ばれる大きな石垣です。
他にも大きな石が使用されているところがありました。
清正公石曳きの像もありますが、名古屋城の工事に尽力したすぐあとに、熊本城の加藤清正はなぞの死を遂げます。
交通アクセス・駐車場
名古屋城への交通アクセスですが、名古屋市営地下鉄・名城線市役所駅から徒歩約5分、または鶴舞線・浅間町駅から徒歩約15分、名鉄瀬戸線・東大手駅から徒歩約15分となります。
有料駐車場は520台で、30分毎に180円です。
観覧券の支払いには交通系ICカード(マナカ、TOICA、Kitaca、PASMO、Suica、ICOCA、はやかけん、nimoca、SUGOCA)が使用できます。
今回、本丸の外観復元天守が閉館したあと訪問させて頂きました。
なんと、間が悪いとお感じになられた方も多いかもしれませんが、名古屋城は、私がまだ歴史に興味を持つ前から見に行ったことがある城です。
そのため、ずっと再訪が先送りとなってしまっており、取り壊すのもわかっていたのですが、今回、たまたま名古屋出張に絡めて訪問させて頂いた次第です。
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ただ、部分的に公開されていた本丸御殿が、すべて完成したのには、タイミングが良かったです。
かつて城郭として国宝第1号に指定された名古屋城の本丸御殿はすべての工事を終えて、2018年6月8日に完成・お披露目となりました。
名古屋城の観光所要時間は60分~120分といったところです。
なお、土日祝は、御殿への入場で待ち時間が発生することも考慮願います。
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