大分県

栂牟礼城(とがむれじょう) 佐伯惟治 佐伯惟定

栂牟礼城

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栂牟礼城(とがむれ-じょう)は、大分県佐伯市弥生にある標高224mの堅固な山城です。
海に近い佐伯城から山側に入った西に約2kmの方角にあります。

最初の築城としては、戦国時代の大永年間(1521年~1528年)に、豊後佐伯氏第10代当主である佐伯惟治が栂牟礼山に築いたとされます。
1527年、謀反の疑いを掛けられた佐伯惟治は、大友義鑑が派遣した臼杵長景ら2万の軍勢に攻められますが、天然の要害で落とせませんでした。
そのため、臼杵長景は一計を案じ、佐伯惟治にいちど日向へ退いた後、大友義鑑に申し開きする際に口添えするとして開城を説得します。
そして、佐伯惟治は僅かな手勢と共に日向へ落ちて行ったのですが、その途中、臼杵長景が用意していた土豪・新名氏によって襲撃され、1527年11月25日、尾高智山で佐伯惟治は自害しました。享年33。
子も自刃したため、豊後佐伯氏は別の系統にて佐伯惟常、佐伯惟教、佐伯惟真、佐伯惟定(さえき-これさだ)と続きます。


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1578年、耳川の合戦で大友宗麟は島津勢に大敗し、佐伯惟教、佐伯惟真、佐伯鎮忠などが討死。
家督は佐伯惟真の子・佐伯惟定が継ぎました。

その後、主君・大友義統が改易されると、佐伯惟定も所領を失い、栂牟礼城を去り豊臣秀保を頼ります。
豊臣秀保の死後は、藤堂高虎の客将となり500人扶持となっています。

佐伯惟定が栂牟礼城を去ったあと、代わりに入封したのは毛利高政となります。
1595年9月に、日隈城主・毛利高政が加増を受ける形になったようで、角牟礼城の改修をしています。

この毛利高政(もうり-たかまさ)は、もともと織田信長に仕え、のち羽柴秀吉(豊臣秀吉)の馬廻衆となった森高次の子・森高政でした。
豊臣秀吉の中国大返しの際に、毛利輝元との停戦の人質として、羽柴家から出されたのが備中高松城に入っていた森重政と森高政の兄弟となります。
こうして人質となった森高政(森勘八郎)でしたが、毛利輝元に気に入られると兄弟の契りを結ぶことになります。
やがて豊臣秀吉の許しが出て、森高政の一族は大江姓の「毛利氏」を称して毛利高政と改姓しました。


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ただし、毛利高政の正室は木曾義昌の娘であり、毛利本家と血縁があった訳ではなかったようです。
1587年、九州攻めでは舟奉行を務めた功績で、2万石(6万石とも?)で、毛利高政は日隈城主となりました。(1596年に日隈城を改修したとも)
従五位下民部大輔にも叙任されていますので、豊臣秀吉からの評価も高かったようです。

1590年の小田原攻めでは兵600を率いて参戦し、1597年からの朝鮮攻めでは軍監を勤め武功をたてています。
そして、佐伯惟定が栂牟礼城から退いた後、佐伯の加増を受けたようで、栂牟礼城を改修しています。
しかし、毛利高政は豊臣直轄地の代官だった時期もあり、実質的に九州の各地をいつから自ら知行したのかは、判別が難しいです。

分かっている事は、1596年に日田郡2万石の所領を与えられ、日田郡と玖珠郡にある豊臣家の蔵入地8万石と、佐伯2万石の豊臣直轄地の代官にも任じられたと言う事になります。

毛利高政は石田三成とは不和でしたが、1600年、関ヶ原の戦いの際に、毛利輝元が西軍の総大将になったため、毛利高政は西軍に組したようです。
そして、大坂・淀の橋の警固を担当した他、細川幽斎が籠城した丹後・田辺城(舞鶴城)の攻撃にも参加しています。
しかし、本国では中津城から黒田官兵衛(黒田如水)が、日隈城を包囲しました。
黒田家に同調した熊本城主・加藤清正も、家臣の吉村橘左衛門を日隈城に派遣して、開城を促していました。
黒田官兵衛は、9月24日に重臣・栗山利安を送って、日隈城に籠る毛利隼人佐・森慶則らを説得します。
森慶則は、まだ石田三成に味方すると表明していた佐賀城鍋島直茂の家臣宛に援軍要請もしましたが無視されたため日隈城を開城し、栗山利安が日隈城に入っています。

丹後・田辺城を落とした際には、関ヶ原の戦いで勝敗も決し、毛利高政は盟友・藤堂高虎の説得を受けて東軍に投降しました。
その後、藤堂高虎の助命嘆願もあり、毛利高政は改易ところか、減封もされていません。
これは、東軍として苅安賀城を守り、関ヶ原合戦にて福島正則に加わって討死した森勘解由の名跡を、毛利高政が継いだからとされており、以後は毛利伊勢守高政を称しました。


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そして、1601年、毛利高政は、佐伯2万石へと転封となります。
この時、堅固な栂牟礼城は不便だと、新たに佐伯城の築城と、城下町の普請を開始しました。

訪問は佐伯城とセットでどうぞ。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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