広島県

神辺城(村尾城) 約280年間も備後の中心地だった山城

神辺城(村尾城)

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神辺城(かんなべじょう)は、標高133m(比高115m)の連郭式山城で、広島県福山市神辺町にあります。
別名は色々あり、村尾城、神辺道上城、紅葉山城、黄葉山城、楓山城となりますが、神辺城(黄葉山)と呼ばれるようになったのは、江戸時代の廃城後ですので歴史的には「村尾城」が正しい城名となります。

もっと古い時代には、三吉氏の一族・上利右近の居城とも言われる古城山城が神辺城の北(古城八幡宮のところ)にありました。
1335年に備後・守護職となった朝山景連(朝山次郎左衛門尉景連)、または浅山備後守条就(浅山備前守条就)が古城山城に入ったとされます。
1362年、浅山次郎義基のとき山名氏が備後守護代となり、古城山城では手狭で高さもなく防御も弱いことから、1443年なって黄葉山に城を築いたようです。
そして、山名煕之(やまなひろゆき)の嫡男・山名氏明が神辺城主と伝わります。


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しかし、戦国時代の天文7年(1538年)、大内義隆が神辺城(村尾城)を攻めたため、降伏した山名氏政は鞆の浦にて蟄居したようです。
この神辺城の戦いで戦功があった伯耆・尾高城主・山名時興の子とされる山名理興が八尾山城から神辺城(村尾城)主になっています。

神辺城(村尾城)

ただし、この山名理興(やまな-まさおき)のもとの名は杉原忠興とされ、神辺城に入ると、山名の姓名を称したともされます。
強弓の名手だったとされますが、もともと、山名一族であった可能性もあります。
1542年、大内義隆が月山富田城の尼子国久を攻めた際に大敗すると、他の武将らと尼子勢に寝返りました。
そのため、1543年から大内義隆は毛利元就と連合を組み、小早川隆景に対して神辺城の南東にある五箇庄(大門・引野・能島・野々浜・津之下)に城を築くよう指示しています。
尼子家も救援を送りますが大内家臣・小原隆言が退けたため、神辺城は家老の杉原盛重の奮戦もあり、なんとか持ちこたえていました。

神辺城(村尾城)

1548年、大内義隆は総大将に陶興房をにんじ、周防・長門から5000余騎を出陣させ、さらに毛利元就と毛利隆元吉川元春・小早川隆景・平賀隆宗・宍戸隆家・香川光景ら10000余騎を加えた総勢16000余騎が神辺城を包囲します。
初陣とされる吉川元春は杉原盛重の攻撃に対して逆に負傷させて追い返したとされます。
しかし、総攻撃に対しても、このとき神辺城の1500は凌ぎ、引き続き包囲されることになります。
1549年、大内家の家臣で安芸・頭崎城主の平賀隆宗が、神辺城の北方にある要害山に向城(要害山城)を築いて800で入り、残りの陶勢・毛利勢は撤退しました。
その後も小競り合いがあるなか、平賀隆宗が陣中で没し、残された平賀勢は「弔い合戦」だとして、単独で神辺城を夜襲したところ、足掛け7年間、ついに山名理興は逃亡して、神辺城は陥落しました。
その後、大内家から青景隆著が神辺城主となっています。

神辺城(村尾城)

1551年、陶隆房が大内館を襲撃して謀反を起こした大寧寺の変により大内義隆が討たれて、毛利元就も独自行動を開始します。
出雲に逃げていた山名理興は、毛利家に恭順して、毛利家が支配していた神辺城に復帰しました。
弘治2年(1556年)、山名理興が中風にて病死すると、吉川元春の推薦によって、重臣であった杉原盛重が神辺城主となっています。

神辺城(村尾城)

これに反対した、山名理興の旧臣・藤井皓玄が謀反をおこし一時、神辺城を占領しますが、すぐに鎮圧されて藤井皓玄は備中へ逃亡して自刃しました。
杉原盛重は尼子家の山中鹿之介らと戦い、永禄7年(1564年)には西伯耆で米子城に近い尾高城に移ります。
そのため、神辺城は二男・杉原景盛が受け継ぎました。
やがて、織田信長の勢力が延びてきて、毛利家は羽柴秀吉の圧迫を受けるようになります。
尼子再興軍に尾高城を奪われて、八橋城にいた杉原盛重が1582年に死去すると、杉原盛重の嫡男・杉原元盛は、どうやら自分の子を神辺城に命じたようです。
それに怒った杉原景盛は、兄の子・杉原元盛を殺害します。
そのため、吉川元春は杉原景盛を討って杉原氏の所領を没収し、神辺城は毛利家直轄となって、毛利元就の八男・毛利元康が2万3828石で入りました。

村尾城

毛利元康は慶長3年(1598年)に、神辺城から南の海辺に新たな城として王子山城を築いて居城を移しました。
だいたい、国道2号沿いの洋服の青山・福山本店の北にある深津王子神社のあたりですね。
1585年に兄の毛利元秋が死去すると、その跡を継いで毛利元康(末次元康)は月山富田城主となっていますので、ずっといた訳ではなさそうです、
また、毛利元康が移ったあとの神辺城主は、毛利家の武将でしょうが、よくわかっていません。

神辺城の本丸手前

1600年、関ヶ原の戦いで、毛利家が減封されると、49万石で広島城に入った福島正則の領地となり、神辺城には一族の福島正澄(福島丹波守正澄)が3万石にて城主となりました。
福島正澄は関ヶ原で負傷し、片足が不自由だったようですが、信頼が厚い筆頭家老です。
ちなみに、鞆城には大崎玄蕃、三原城には子の福島正之、東城城には長尾隼人が入っています。

神辺城(村尾城)の本丸

1619年、難癖をつけられて福島家が改易(所領没収)決定となった際に、福島正澄は非戦闘員は城から出し、2000の兵と共に開城に反対して籠城しました。
しかし、幕府の上使であめ永井直勝と安藤重信に対して「この城は福島正則から預かったものだから主君の命が無いことには開場できない」とし、それを聞いて号泣した福島正則が城明け渡しの書状を送り、開城命令に従うよう説得しました。

神辺城(村尾城)

この立派な福島家の明け渡しは、当時、評判となり、こぞって、他の大名家が、旧福島家の家臣らを召し抱えたと言います。
福島正澄にも、紀州家からは2万石、前田家からは3万石の打診がありましたが、主を変えるつもりはないとことわり、出家して人生を終えたと言います。

神辺城(村尾城)からの展望

その後、代わりに大和郡山城から水野勝成が10万石で入封し、最初はに神辺城に入りますが、まもなく福山城を新築します。
神辺城の石垣や建物などは福山城に移築されて、1622年、神辺城は廃城となりました。
神辺一番櫓(三層、七間と四間半)、神辺二番櫓(二層、四間と五間)、神辺三番櫓(二層、六間と四間)、神辺四番櫓(二層、四間と二間)が福山城の西側に配置されたと言います。
恐らくは3重櫓は、神辺城の天守だったのではないでしょうか?


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交通アクセスですが、神辺城祉へは、山の上の本丸近くまで車で上れて、8台ほどの無料駐車場もあります。
そして、隣接して無料の神辺町立歴史民俗資料館もあります。
ただし、アプローチできる道路は広いとは言えず、すれ違いが困難ですので、対向車には充分注意してください。
また、石垣の一部は残っていると聞いていたのですが、見つけることはできませんでした。
見学所要時間は、駐車スペースからで往復20分といったところです。
また旧山陽道沿いには宿場町の面影が残っています。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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