小諸城とは
小諸城(こもろじょう)は、長野県小諸市の平山城で、別名は酔月城、鍋蓋城、穴城、白鶴城と言います。
日本100名城、日本さくら名所100選、日本の歴史公園100選にも選ばれています。
平安時代末期に「平家物語」「源平盛衰記」にも登場する源氏・木曽義仲の家臣・小室光兼(小室太郎光兼)が、宇頭坂城を、現在の古城付近に構えたのが始まりとされます。
南北朝時代になると清和源氏流小笠原氏一門の小室氏は衰退し、甲斐武田流大井氏である大井城主・大井光照の4男である大井光忠が、1487年に宇頭城跡を改修して鍋蓋城を築ました。
その子・大井光安(大井光為)が出城として乙女坂城(白鶴城)を築いたのですが、これが現在の小諸城の二の丸付近だと考えられています。
戦国時代になると、小諸城は村上義清の支配下となりますが、武田信玄が佐久に侵攻すると、大井氏も武田に降ったため、小諸城は武田領となりました。
そして、小諸城(酔月城)は、山本勘助や馬場信房らが縄張り(設計)し、1554年から大幅に改修されました。
下記は山本勘助が小諸城築城の時に研磨したと伝わる「鏡石」で本丸跡にあります。
ただし、山本勘助が軍師であった確たる証拠はないため、実際には馬場信房が中心になって対応したものと推測できます。
また、飯縄山に支城として富士見城も造営したものと考えられます。
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小諸は火山で知られる浅間山(あさまやま)の火砕流台地となっています。
実は、小諸城の大手門がある場所は、小諸城の天守台より標高が高いところにあります。
そのため、城に入るのは、城下町から見ると穴に入るようだと言う感覚から「穴城」と呼ばれる由縁です。
大阪夏の陣があった江戸時代の1615年に建造された「三の門」を入ると、現在、小諸城観光の有料入場口(懐古園の入口)があります。
そこからは二の丸になるのですが、天守(本丸)がある方向がだいたい分かっても、天守は見えにくい構造になっています。
もちろん、大堀切で本丸部分は分離されていますので、防御力も高いです。
本丸の西側は高さ70mの崖になっており、眼下には千曲川が流れます。
ここからは小諸城主となった武将を紹介しながら、小諸城の写真も掲載させて頂きます。
下曽根浄喜
武田家の支配下となり、小諸城主には一族の武田信豊が入ったとする説もありますが、攻められたことも無いことから、あまり詳しいことはわかっていません。
武田勝頼の題になると、春日虎綱、そして武田一門衆の下曾根浄喜が小諸城代を務めています。
1582年3月に織田信忠が甲斐へ侵攻した際には、武田信豊が小諸城に逃れました。
しかし、1582年3月16日、下曽根浄喜は武田信豊がいた二の丸に火を掛けたため、武田信豊は嫡男・武田次郎や、生母・養周院と家来とともに自害して果てました。
武田信豊の首は、武田勝頼・武田信勝・仁科盛信の首級とともに織田信長のもとに届けられ、長谷川宗仁によって京都にて晒されています。
ただし、下曾根浄喜は、武田信豊の首を織田信長に進上しましたが、誅殺されたと言います。
道家正栄
その後、織田家の重臣・滝川一益が、上野国にプラスして信濃の佐久郡・小県郡の領主となり、小諸城には家臣の道家正栄が2万石で入りました。
しかし、1582年6月2日に、明智光秀の本能寺の変にて織田信長が横死します。
下記写真は本丸手前の堀切にかかる橋です。
この知らせは、6月6日に小諸城の道家正栄にもたらせ、翌日の7日には厩橋城にいた滝川一益に伝わりました。
依田信蕃
この契機に小田原城の北条氏直は上野へ侵攻し、6月19日に神流川の戦いとなりますが、滝川勢は敗退します。
そして、箕輪城から碓氷峠を越えて、6月21日に滝川一益は小諸城へ入りました。
この時、織田家に味方していた佐久の国衆・依田信蕃(よだ-のぶしげ)が木曾義昌などとの交渉を仲介し、6月27日になって滝川一益は小諸城から出て、本領の伊勢・長島城へと向かいます。
この依田信蕃は、武田勝頼の元では駿河の田中城主で、武田家が滅亡したあとでも徳川家康に抵抗を続け、徳川家康も高く評価していた勇将でした。
自領の春日城に戻っていた依田信蕃が、その後、小諸城を預かりましたが、依田信蕃は徳川家康に臣従することになります。
そして、真田昌幸らを徳川勢にと調略も行っています。
ただし、旧武田に従っていた国衆の一部は、北条勢に味方する者もおり、佐久の岩尾城主となった大井行吉の元に集結していました。
そのため、依田記・三河物語によると、依田信蕃は、天正11年(1583年)2月21日に、岩尾城を攻めて岩尾城の戦いとなります。
2月22日、依田信蕃は銃撃を受けて、実の弟・依田信幸と共に討死しました。享年36。
この戦死を受けて、徳川家康は、依田信蕃の長男に「松平姓」を称することを許し、依田康国(松平康国)は小諸城6万石として、徳川家の家臣の中ではこの時期、トップクラスの重臣として加わっています。
なお、依田康国(松平康国)はまだ13歳くらいであったため、大久保忠世が後見し、佐久を統治しました。
仙石秀久
九州の戸次川の戦いで大敗し、所領没収となっていた仙石秀久は、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにて戦功をあげ、大名として復活しました。
このとき、与えられたのが、徳川家康の関東移封で空きとなった小諸城となり、5万石となりました。
1600年、関ヶ原の戦いでは、仙石秀久も、東軍・徳川家康に味方し、小山評定のあと中山道を進んだ徳川秀忠の東軍が小諸城を経由して、上田城の真田昌幸を攻撃しました。
下記は小諸城の天守台です。
このように仙石家は、元和8年(1622年)に2代・仙石忠政が上田城へ転封するまで、小諸城を本拠とし、小諸の城下町や街道の整備を行いました。
国の重要文化財となっている「大手門」は、1612年に仙石秀久が建造したものとなります。
5万石程度の城としては、大変立派な大手門です。
下記は大手門を裏側から撮影してみたものになれます。
大手門は、しなの鉄道の線路より北側にありますので、懐古園(小諸城)からはちょっと離れています。
懐古園の入口にある「三の門」はのちに洪水で破壊されたため、江戸時代中期の明和3年(1766年)に再建されたものとなりますが、こちらも国重要文化財に指定されています。
懐古園の扁額は、徳川家16代である徳川家達の筆となります。
小諸城は仙石氏のあと松平氏、青山氏、酒井氏などが入封し、元禄15年(1702年)に牧野康重が入るとそのまま牧野氏によって明治を迎えました。
そして、本丸跡に「懐古神社」が建立されて、小諸城址は「懐古園」と名付けられた次第です。
春の桜だけでなく、紅葉の名所としても有名な観光地となっています。
徴古館には、戦国時代など小諸城に関する資料などの展示もありますが、撮影禁止のため写真類はありません。
小諸城への交通アクセスですが、懐古園=小諸城ですので、小諸駅の南口からすぐとなります。
有料駐車場のある場所は当方のオリジナル地図でもわかるようにしてありますので、ご活用頂けますと幸いです。
見学所要時間は全部見ますと60分といったところです。
・信濃・大井城~佐久を治めた小笠原一門・岩村田大井氏
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