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尾張・羽豆岬城の解説 ~加藤清正とSKE48~

羽豆岬城址碑

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尾張・羽豆岬城とは

羽豆岬城(はずさき-じょう)は愛知県知多半島の先端にある羽豆岬を望む小高い丘の上に築かれた城です。
安土桃山時代以前は航海術も未熟であり、外洋に出るための船も多くなかったため、海上交通は陸沿いを辿らざるを得ませんでした。


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知多半島の先端に位置する師崎は、東側の三河湾沿岸では吉良の名前の由来となった雲母(うんも)が採掘され、沿岸部では塩田による塩の製造が盛んに行われていました。
西の伊勢湾沿いを北上すると、熱田湊を経て木曽川上流の良質な木材が得られるなど、古来より海上交通・交易の要所となっていました。

羽豆岬の看板
〇羽豆岬の看板

師崎の先端に位置する羽豆岬を望む高台には、白鳳年間(700年~)に創建されたと伝わる羽豆神社が建立されており、祭神は尾張国造乎止与命(おわりのくにみやつこ-おとよのみこと)の長男である建稲種命(たていなねのみこと)です。

羽豆神社
〇羽豆神社

建稲種命は日本武尊命(やまとたけるのみこと)が東征の際、建稲種命の妹である宮簀媛(みやずひめ)を妃にした事もあり、副将に任命され数々の戦功を立てており、戦に赴く前は妻の玉姫と共に師崎に居住していました。
風光明媚な師崎の地を毎日のように散策していた建稲種命と玉姫でしたが、建稲種命が日本武尊命に従い水軍を率いて東征に赴くと、玉姫は夫の帰りを浜辺で待ち続けていたため『待合浦』と呼ばれるようになり、待合浦を望む場所に玉姫を祭る祠が建てられています。

ウバメガシのトンネル
〇ウバメガシのトンネル

また、ウバメガシのトンネルは『恋のロマンスロード』と名付けられ、羽豆神社は建稲種命を待ち続ける玉姫の姿から、恋の成就にご利益があるとされています。

玉姫の看板
〇玉姫の看板

歴史

羽豆岬城は南北朝時代に築かれた説が有力で、羽豆神社の由緒には熱田大宮司攝津守親昌その猶子昌能羽豆崎に城を築く、神社修復(1322~1355)と記されている事から、南北朝末期に築かれた城館と思われます。

太平記には
新田義貞(にった-よしさだ)の弟である脇屋義助(わきや-よしすけ)が興国元年(暦応3年:1340年)に美濃国の根尾城から73名の家臣と落ち延びてきて、この地に滞在した後、吉野に向かった』
との記述があります。

また、後醍醐天皇天皇の皇子である宗良親王(むねよししんのう/むねながしんのう)は、建武の新政崩壊後、南朝の武将として活躍し、延元3年(暦応元年:1338年)に伊勢の北畠氏に奉じられ海路東国へ移ろうとしますが、遠州沖で座礁したため、井伊谷の豪族である井伊行直(いい-ゆきなお)の元へ身を寄せます。

興国元年(暦応3年:1340年)井伊谷が北朝の高師直(こう-もろなお)と仁木義長(にき-よしなが)率いる兵によって攻め落とされると、北上して大河原(現在の長野県大鹿村)を約30年間にわたって拠点とし、四方に出陣して弱体化する南朝の支えとなっていき、各地の戦いで敗れ去った数多くの南朝の武将が身を寄せています。

正平6年(観応2年:1351年)に足利尊氏(あしかが-たかうじ)が南朝に降伏した際には鎌倉を攻め落とすなど威勢を誇りますが、北朝が勢いを盛り返すと、正平24年(応安2年:1369年)本拠地の大河原も関東管領上杉朝房(うえすぎ-ともふさ)の軍勢によって攻め落とされ、翌年の正平25年(応安3年:1370年)頃、師崎の地に滞在した後、南朝方の本拠である吉野に向かっており、羽豆神社には宗良親王が奉幣された記録が残されています。

羽豆神社由緒
〇羽豆神社由緒

その後、近隣にある蜂屋城主で南朝方の武将であった蜂屋光経が羽豆岬城を支配していましたが、南北朝末期には足利尊氏の一族である一色氏が知多郡の守護代として一帯を掌握します。

応仁の乱が起こると一色氏は細川氏との対立で知多半島での影響力を失い、変わって大野城の佐治氏の力が増してきますが、文明8年(1476年)田原城主の戸田宗光(とだ-むねみつ)が羽豆岬に進出し、佐治氏と共に陣代を置いて共同統治を行っていましたが、明応年間(1492年~1500年)頃には戸田宗光の嫡子である戸田憲光(とだ-のりみつ)が一帯を手中に治めました。

16世紀に入ると津島湊を所領として影響力を伸ばす織田弾正忠家と、熱田湊を支配する熱田神宮の大宮司である千秋家は縁を結び、羽豆岬城も千秋氏の支配する所となります。
羽豆岬城主となった千秋季忠(せんしゅう-すえただ)は織田信長(おだ-のぶなが)配下の武将として、駿河国から西進する今川義元(いまがわ-よしもと)を迎撃するため永禄3年(1560年)桶狭間へ出陣。
佐々政次(さっさ-まさつぐ)と共に今川軍と対峙していましたが、織田信長が善照寺砦に到着した知らせを聞き、今川軍本隊に攻撃をしかけ、佐々政次と共に討ち死にを遂げました。

その後、知多半島に勢力を伸ばしてきた水野家と、織田家と縁を結んだ佐治氏が二分する事となり、羽豆岬城は大野城主佐治為貞(さじ-ためさだ)の息子で佐治氏重臣あった千賀氏の養子に入った千賀重親(せんが-しげちか)が城主として入る事になります。


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小牧長久手の戦いで佐治氏が豊臣秀吉の不興を買って領地を没収されると、千賀重親は徳川家康(とくがわ-いえやす)の配下となり、天正18年(1590年)徳川家が関東に移封されると小浜景隆(おばま-かげたか)、向井正綱(むかい-まさつな)、間宮信高(まみや-のぶたか)と共に徳川船手四人衆に任じられ、三崎で1000石を得ています。
慶長5年(1600年)関ケ原の戦いが徳川家の勝利に終わると、西軍側の九鬼船団を伊勢湾一帯から駆逐した働きを賞されて千賀氏は旧領の師崎を回復する事ができました。

慶長7年(1602年)千賀重親は羽豆岬城を破却し、その木材を利用して羽豆岬城下に屋敷を築いて移り住み、慶長11年(1606年)に清州城主松平忠吉(まつだいら-ただよし)に対して直轄領であった知多郡を与える際、徳川家康は千賀氏に対して松平忠吉に仕えるように命じており、松平忠吉が死去して徳川義直が尾張に入封されると引き続き師崎の地を拠点として伊勢湾の海運を支配したとされています。

石切り場の矢穴石
〇橋田鼻の石切り場に残された矢穴石

慶長15年(1610年)徳川家康は西国諸大名に対し、これまで尾張の地を支配してきた清州城を廃して、新たに名古屋城の築城の助役を命じます。
名古屋城の石垣の多くは三河湾沿岸や篠島などから切り出され、船によって熱田湊を経て名古屋城へ運ばれたと言われており、形原城の南に位置する橋田鼻は福島正則(ふくしま-まさのり)が採石を担当し、潮が引くと矢穴石を見る事ができます。

加藤清正(かとう-きよまさ)は篠島の石を切り出して名古屋城へ運搬する際、切り出した石の一部を羽豆神社に奉納し、航海と築城の安全を祈願したと言われており、羽豆神社境内では清正の矢穴石を現在も見る事ができます。

清正の矢穴石
〇羽豆神社境内に奉納された清正の矢穴石

SKE48の聖地・羽豆岬

名古屋市の繁華街である栄を中心に活動するSKE48は、2010年3rdシングル「ごめんね、SUMMER」を発売しますが、そのカップリングとして「羽豆岬」をリリースし、そのミュージックビデオは師崎の地で撮影されており、羽豆神社もPVに登場しています。
さらには2012年の楽曲ファン投票で1位となるなど反響を呼び、聖地巡礼として羽豆岬神社に参拝して絵馬を奉納するファンも増加。
2013年7月に玉姫を祀る祠から程近い場所に歌碑が建てられ、除幕式を終えたSKE48のメンバーは、乗車した海っ子バスで帰る途中に窓ガラスに落書きサインを残しており、2023年現在でも薄れてきてはいますが見る事ができます。

羽豆岬の歌碑
〇羽豆岬の歌碑

交通アクセスと登城

公共交通機関を利用する場合、名古屋鉄道の河和駅か内海駅から出ている海っ子バスを利用し、師崎西口で下車します。
自家用車で訪問する場合は師崎港駐車場を利用してください。

推奨ルート:
羽豆岬城跡→(徒歩約10分)→千賀屋敷

師崎港のフェリー乗り場から海沿いに岬の先端に進むと羽豆岬公園に出ます。

宗良親王の歌碑
〇宗良親王の歌碑

公園の北端には羽豆岬の歌碑が建てられており、海沿いに進むと玉姫の祠、宗良親王の歌碑と続き、羽豆岬神社の鳥居があり、鳥居脇が登城口となります。

羽豆岬神社の鳥居
〇羽豆岬神社の鳥居

登城口から登っていくと南端に展望台があり、そのすぐ北側に羽豆岬神社の本殿が建てられており、入り口脇には清正の矢穴石が残されています。
北側に進むと羽豆岬城の城址碑が建てられており、その先の展望台からは伊勢湾・三河湾が一望できます。
展望台を降りてさらに北に向かい、ウバメガシのトンネル「恋のロマンスロード」を抜けて羽豆神社の鳥居口から道路に出て、正面の師崎街道を進んだ先、コンビニの西側にある民家脇に千賀屋敷の碑が建てられています。

展望台からの眺望1

展望台からの眺望2
〇羽豆岬の展望台からの眺望

その他関連施設等
・羽豆岬神社
知多郡南知多町師崎明神山2

・千賀屋敷
知多郡南知多町師崎的場

千賀屋敷
〇千賀屋敷

・橋田鼻の石切り場
蒲郡市西浦町大山

石切り場の案内看板
〇石切り場の案内板

(寄稿)だい

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だい

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愛知県在住の会社員です。
休日には県内の城巡りをしており、愛知県内にある1,300以上ある城館を全て制覇する事が当面の目標。
モットーは「どんなマイナーな土地にも歴史はある!」
愛知県出身の有名武将は数多く存在しますが、それ以上にマイナーな武将や城も多数存在しています。
そんなマイナーな武将やお城を歴史好きの皆様にご紹介できるような記事を書いて行きたいと思います。

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