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どうする家康の舞台「岡崎城」下を巡る~築山殿と岡崎信康の首塚

築山御前塚看板

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愛知県の岡崎城日本100名城の一つで2023年の大河ドラマ 【 どうする家康 】 の舞台の一つとなっている城です。

今回は天守と大河ドラマ館のある岡崎城公園から始まり、岡崎城下を巡る形式で歴史スポットをご紹介します。

推奨ルート
岡崎城公園 →徒歩約10分→ 御旗公園 →徒歩約3分→ 松應寺 →徒歩約5分→ 岡崎城信濃門跡 →徒歩約10分→ 籠田惣門跡 →徒歩約5分→ 徳川四天王像 →徒歩約10分→ 菅生神社

岡崎城公園 →自家用車約5分→ 若宮八幡宮 →自家用車約5分→ 八柱神社
菅生神社から若宮八幡宮まで徒歩だと40分近くかかります。
公共交通機関を利用する場合、籠田公園前からバスが出ており、西欠町で下車。西欠町のバス停から若宮八幡宮まで徒歩約15分、八柱神社まで徒歩約5分となっています。


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現在の岡崎城が形成されたのは、天正18年(1590年)徳川家康(とくがわ-いえやす:※注1)が関東移封になった際に、豊臣家家臣である田中吉政(たなか-よしまさ)が岡崎に入城し、強固な石垣や城壁などを用いた上で、街道と城下町を整備しながら城域を拡大し、近世城郭へと変貌させていきました。

※注1:徳川家康は時代によって松平元康(まつだいら-もとやす)等、名乗りが変わっていますが、ここでは呼称を徳川家康で統一していきます。

岡崎公園前の信号から城門通りを北上して400m程進むと材木町3丁目の信号交差点で東海道と交わります。交差点を東に進み、最初の路地を北に進んだ先に岡崎城の総堀跡を整備した御旗公園があり、公園内には田中吉政の像が設置されています。

田中吉政の像
○御旗公園内の田中吉政像
岡崎市松本町1-39

路地をそのまま北上した突き当たりに建てられているのは徳川家康の父である松平広忠(まつだいら-ひろただ)の菩提寺である松應寺です。
天文18年(1549年)岡崎城主であった松平広忠は城中で暗殺されたため、月光庵に埋葬されました。
織田方の人質として熱田にいた徳川家康は今川家に赴く際、月光庵に立ち寄り、墓上に小松を植えて松平一族の繁栄を祈願します。

永禄3年(1560年)桶狭間の合戦により今川家から独立し、岡崎城主となった徳川家康は月光庵の松が成長した姿を見て「我が祈念に応じた松」として、松應寺を建立し、父である松平広忠の菩提寺としました。

松平広忠の墓所を囲む土塀は数年前に修復され、現在は美しい姿を保っています。土塀にある白線は寺格を示す物で五本線は最高級の”格”を示しており、徳川家康の父である松平広忠廟所の重要性を象徴しています。

松平広忠廟所(土塀修復後)
○松應寺にある松平広忠廟所
岡崎市松本町42

松平広忠廟所(土塀修復前)
○松平広忠廟所(土塀修復前)

松應寺前の通りを東に進み、能見通二丁目の信号交差点を南下し、250m程進んだ能見通一丁目南の信号交差点の北西には岡崎城信濃門跡の碑が立てられています。

岡崎城信濃門跡
○信濃門跡の碑

信濃門跡の碑からさらに250m程南下すると東海道に交わります。
東海道を東に300m程進むと籠田公園に出ます。
公園内を南に進んだ先は岡崎城の東の境である籠田惣門があった地です。
整備される前は田中吉政像はこの地にありました。

籠田惣門跡
○籠田惣門及び築山殿の住居があったとされる近辺

籠田惣門跡近くにある西岸寺は徳川四天王の一人である本多忠勝(ほんだ-ただかつ)の菩提寺で、本田忠勝が岡崎にいた際に住んでいた屋敷跡に建立されたと言われています。
また、同じく徳川四天王の一人である榊原康政(さかきばら-やすまさ)の屋敷は本田忠勝の屋敷の隣にあったと言われており、すぐ東には築山殿が住んだ屋敷があったと伝わっています。

公園内をさらに南に進むと、徳川四天王の像が建てられています。
最初に見える井伊直政(いい-なおまさ)の像は、小牧長久手の戦いで井伊直政が赤備えを率いて突撃する場面。
当時、井伊直政は24歳で、この戦いで『井伊の赤備え』が一躍有名になったそうです。


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※井伊直政の像と、後で紹介する本田忠勝の像は馬に乗っていますが、胴体のみ作られており、馬の頭と足がありません。
当時の馬は現在のサラブレットよりも小型ですが、馬の全身まで含めて作ってしまうと相対的に人物を小さく作る必要があり『四天王』としての人物が目立たくなってしまうため、最初から胴体のみで像を制作したとの事です。
像が作られた後で破壊された訳ではありませんので、上記ご理解下さい。

井伊直政の像
○井伊直政の像

次は、榊原康政が37歳の時に勃発した小牧長久手の戦いで、豊臣秀吉(とよとみ-ひでよし)を非難するために書いた文書で、織田信雄(おだ-のぶかつ)に向けて兵を挙げた事を非難しています。
この文書を見た豊臣秀吉は激怒し『榊原康政を倒した人物には10万石を与える』と言った事から『十万石の檄文』と呼ばれるようになりました。
なお、実際の文書はもっと長文で草書体で書かれていましたが、現代人にも理解しやすいように一部を抜粋して現代文で書いたとの事です。

榊原康政の像
○榊原康政の像

国道1号線を渡った南に配置された像は、三方ヶ原の戦いで徳川家康が武田信玄(たけだ-しんげん)に大敗して浜松城に逃げ帰った際、意気消沈した味方を鼓舞するために櫓の上で陣太鼓を叩いたと言う伝承に基づいて作られた物。
かがり火が焚かれた城門は開け放たれ、夜間に鳴り響く陣太鼓を聴いた武田軍は追撃を諦めたと伝わります。
※空城の計や酒井の陣太鼓は出典が明確では無いため、後世の創作とされる説もあります。

酒井忠次の像
酒井忠次の像

一番南に位置する物は、二俣城を目指す武田軍に対して偵察に出た本田忠勝25歳の時の像です。
この時、本田忠勝の他、内藤信成と徳川家康本人が3,000人の兵を率いて偵察に出ましたが『風林火山』の旗に恥じぬ速度で進軍する武田軍本体と遭遇したため、兵力の差が大きい徳川軍は本田忠勝を殿(しんがり)にして兵を引く事を決断。
奮戦しながらも撤退戦を完了させた本田忠勝の武勇に対し『家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八』と言う狂歌・落書が登場する事になりました。

本田忠勝の像
○本田忠勝の像

籠田公園の南側には岡崎城の堀の役目を果たした乙川が流れています。
乙川の堤防沿いを西に進むと岡崎公園の手前に建てられているのは菅生神社です。
戦火の影響などで何度か位置を変えていますが、創建は西暦110年で岡崎市内で一番古い神社となります。
夏に開催される菅生祭は岡崎三大祭の一つに挙げられ、江戸時代の頃より花火が上げられる事で有名です。
江戸時代、火薬を使用する花火作りは徳川家康の故郷である岡崎を含む一部地域でしか製造を許されておらず、菅生祭の花火はいわゆる岡崎の特権として認められている物だったそうです。

菅生神社
○菅生神社
岡崎市康生町630-1

菅生神社由緒
○御由緒

なお、菅生神社前の階段で乙川河畔に降りると、発掘された岡崎城菅生川端石垣を見る事ができます。

菅生川端石垣
○岡崎城菅生川端石垣

岡崎公園から国道1号線を東に進み、朝日町4丁目の信号交差点を南に入った先に若宮八幡宮があります。
天正7年(1579年)徳川家康の長男である岡崎三郎信康(おかざき-さぶろう-のぶやす:松平信康)は織田信長(おだ-のぶなが)に武田氏との内通を疑われ、21歳の生涯を閉じる事となります。
遠江二俣城で自害した岡崎信康の首は、信長の元へ運ばれ、首実検をされた後に岡崎へと差し戻されました。
息子の首を見た徳川家康は清水万三郎に命じて若宮八幡宮境内に埋葬させたと言う事です。

※自家用車で移動する場合は境内北側の路地から入ると駐車スペースがあります。

若宮八幡宮
○若宮八幡宮本殿
岡崎市朝日町森畔12

岡崎信康の首塚
○岡崎三郎信康の首塚

若宮八幡宮由緒
○御由緒

若宮八幡宮から北東へ約1km程の地に八柱神社が建立されています。
境内には石川数正(いしかわ-かずまさ)が築山殿の首を埋葬したと伝わる塚が残されています。
当時は岡崎城に程近い寺内にあった首塚ですが、正保3年(1646年)に当時の岡崎城主だった水野忠善(みずの-ただよし)が移設したとあります。
※駐車場には境内北側の路地から入る事ができます。

八柱神社
○八柱神社
岡崎市欠町石ケ崎52ー1

築山殿首塚
○築山殿の首塚

築山殿首塚の由緒
○御由緒


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(寄稿)だい

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だい

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愛知県在住の会社員です。
休日には県内の城巡りをしており、愛知県内にある1,300以上ある城館を全て制覇する事が当面の目標。
モットーは「どんなマイナーな土地にも歴史はある!」
愛知県出身の有名武将は数多く存在しますが、それ以上にマイナーな武将や城も多数存在しています。
そんなマイナーな武将やお城を歴史好きの皆様にご紹介できるような記事を書いて行きたいと思います。

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