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伊勢・浜田城の解説~四日市にある平城と田原重綱のその後

伊勢・浜田城

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伊勢・浜田城

伊勢・浜田城(はまだじょう)は三重県四日市市鵜の森にある平城

最初の築城としては応仁の乱が勃発していた頃の文明2年(1470年)に田原忠秀(田原美作守忠秀)が築いたとされる。
田原氏はもともと上野国赤堀庄(上野・赤堀城)が出自で、先祖は例によって藤原秀郷俵藤太)となる。
1352年(観応三年)に赤堀下野守が伊勢国のマガノ御園の地頭職を得た。

伊勢・浜田城

応永年間(1394年~1428年)に田原景信(田原孫太郎景信)が伊勢に移ると四日市の赤堀城を築いた。
その田原景信の長男・田原盛宗は羽津城、次男・田原秀宗を赤堀城、そして三男・田原忠秀が浜田城に分家したと言う事になり「赤堀三家」と呼ばれた。
四日市で「あかほり」と読むが群馬県では「あかぼり」と言う。

田原忠秀は東海道を海のほうに移して市場の整備をおこなうと、三滝川の南側の辻にて四のつく日(毎月4日・14日・24日)に市が開かれたので「四日市」という地名もできたようだ。

戦国時代に入り田原元綱(田原遠江守元綱)の時、永禄2年(1559年)に、工藤右衛門祐治が塩浜から上陸して伊勢・浜田城を攻撃。(浜田の戦い)
子の田原重綱(田原与右衛門重綱)が、赤堀城かせ援軍を得て蹴散らしたとされる。
1560年には、伊勢・亀山城の関氏を巻き込みつつ羽津城の田原氏と茂福城主の朝倉氏が争い、神戸氏の援軍が富田浜に上陸して茂福の戦いが起き茂福氏(朝倉氏)が勝利している。


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天正3年(1575年)、伊勢・神戸城の神戸友盛が没落すると織田信長の重臣・滝川一益が伊勢・田原城を攻略。
援軍を得られず中川掃部助・堀木信濃守ら僅か100名余りで防戦するも叶わず、落城寸前に田原元綱は子の田原与衛門重綱を夜陰に乗じて逃したあと庭前の石に辞世を書き付け腹十文字に切り、城に火を放ち13人の家臣らと自害したと伝わる。
逃れた子の田原重綱は東漸寺・第8世東玄性法師の助けもあり美濃に逃れると、のち伊勢に入った織田信雄(織田信長の次男)に臣従した。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い(美濃・加賀野井城の戦い)で田原重綱は討死したので伊勢・田原氏は滅亡。

また、小牧・長久手の戦いの際に、滝川雄利が伊勢・松ヶ島城を開城したのち浜田城に移って籠城したともある。


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現在、伊勢・浜田城の一部は鵜の森公園として整備されており、東側に冠木門があり、説明板・城址碑が設置されている。
鵜森神社には城主・田原忠秀など4代の霊が祀られているようだ。

交通アクセス

伊勢・浜田城への行き方だが、近鉄四日市駅から徒歩5分と近い。
駐車場はないのでコインパーキング利用となる。
当方のオリジナル地図「名古屋・北陸」方面では城址碑がある場所をポイントしている。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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