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三河・羽城(大浜陣屋、三河・長田屋敷)の解説【どうする家康】松平信康が蟄居した「三河・大浜城」池田恒興を討ち取った永井直勝の活躍

三河・羽城

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三河・羽城(大浜陣屋)

三河・羽城(大浜陣屋)は愛知県碧南市羽根町にあるむ平城・陣屋跡。
この愛知県碧南市羽根町には、鎌倉時代には三河・長田屋敷、今川家の時代には三河・大浜城や大浜古城、徳川家康の時代には三河・羽城(はじょう)、江戸時代中期には大浜陣屋と言う名で登場する。
特に三河付近では、今川家と徳川家(松平家)によって、城の名前が違う事がありややっこしい。

現在の三河・大浜の地はだいぶ埋め立てられて川に挟まれていると言う地形であり東に矢作川が流れているが、かつては油ヶ淵(あぶらがふち)と言う広大な汽水湖だったようで対岸に吉良荘の西尾城があった。
西の衣ケ浦(ころもがうら) もっと刈谷城付近まで深く入り込んだ入り江になっていたことから、この大浜郷は細長い半島のようになっていたことがわかる。
大浜湊があり古くから海運で栄えた町であった。

古い時代の三河・長田屋敷はどこにあったのか不明だが、永田氏(長田氏)の菩提寺が宝珠寺のためその近くあったと考えられる。


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三河・長田屋敷は平安時代末期に築かれたと考えられるが、尾張・長田屋敷(野間荘)にいた長田親致が移住したと言う。
平治元年(1159年)、平治の乱に敗れて敗走した源義朝(源頼朝の父)が長田氏を頼った際に、長田親致の弟が風呂場で殺害したため移り住んだとされる。
乳母であった初音の生まれ故郷が大浜郷棚尾(愛知県碧南市)であったため漁船で渡って、三河・長田屋敷に移ったと言われている。
この子孫は戦国時代松平広忠・徳川家康に従っており「永田」と漢字を変え、小牧・長久手の戦いにて池田恒興を討ち取った永井直勝を輩出した。

ただし、徳川家康が三河・岡崎城に復帰するのは1560年桶狭間の戦いのあと。
その前の段階での三河・大浜の状況を先に記載したい。

まず大浜には東照山・称名寺(しょうみょうじ)があり、松平家とゆかりがある。
1441年には、松平有親と松平親氏の親子が閑居したのが称名寺であり、松平信忠(徳川家康の曾祖父) が隠居して死去したのも称名寺。
徳川家康の幼名「竹千代」と命名(献上)したのは、称名寺の第十五世・其阿和尚である。


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戦国時代には1547年、14歳になった織田信長の初陣は「吉良大浜の戦い」だったともされる。
三河・大浜城主の長田重元が三河・岡崎城へ赴く情報を知った河合氏が織田家へ「大浜城主不在」と急報。
そのため、織田信秀は斎藤利政(斎藤道三)との負け戦の評判を取り戻すため、若き織田信長に三河・大浜城の攻撃を命じたと言う。
織田勢は吉良・大浜を攻めるとあちこちに放火し野営したのち次の日には那古野城に帰陣したとされる。
対した戦果を挙げず、すぐに帰っているので、織田信長の初陣を飾るために簡単に合戦してみたと言ったところか?

1548年、松平信孝(松平清康の弟)が松平広忠(徳川家康の父)を裏切り織田家に寝返って三河・山崎城に籠城。
そして、上和田城の松平忠倫や三河・上野上村城酒井忠尚らと結託した。
耳取縄手の戦いにて、松平広忠勢の上田元俊(上田兵庫元俊)が松平信孝を討ち取った。
この功績にて、上田元俊は三河・大浜にて加増を受けたとある。(今川義元から大浜に領地をもらったとも)
ただし、上田元俊は徳川家康が江戸城に入って関東に新しく所領を得て旗本になった際でも、武蔵国橘樹郡(川崎市中原区)で210石とあり、失礼な話だが決して禄が多いとは言えない。
そのため、三河で得ていた領地が大浜と言っても極一部だったものと推測される。

また、大浜古城には稲熊氏がいたともあり、そのあと、天野孫三郎が天文年間(1532年年~1555年)頃に50貫で大浜にいたともある。
天野孫三郎は松平広忠の家臣であったが、西広瀬城の佐久間全孝を暗殺するように命を受けたとの話がある。
佐久間全孝を殺害したら大浜で100貫、手傷を負わせたら50貫を与えると言われたようだ。
天野孫三郎は佐久間家に仕官してチャンスを待ち実行したが、ケガを負わせたものの暗殺には失敗した。
そのため、三河・大浜で50貫になったとある。
なお、佐久間全孝は1549年、三河・岡崎城に刺客・岩松八弥(片目の八弥)送り、松平広忠を暗殺したとする説もある。

その後、大浜郷では長田氏の名が出て来る。


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長田広正(伝八郎広正)は、奴野城主?・大橋定広(大橋中務少輔定広)の4男で、三河・長田氏の養子になって大浜の荘官になったともある。
そして、1504年に長田重元が生まれ、松平広忠に仕えたとある。(もちろん諸説あり)
その長田氏は下記にてご紹介する永井直勝に繋がった。

永井直勝

永井直勝(ながい なおかつ)は戦国時代の武将で1563年に長田重元の子として大浜郷にて生まれた。
母は鈴木弥右衛門の娘。
兄に長田尚勝、弟らに永井白元、神谷弥五郎の妻、杉浦藤五郎の妻、長田白勝の妻、沢田孫八郎の妻、小沢忠重の妻などがいる。
父・長田重元(おさだ しげもと)は尾張の織田信秀に対抗するため、松平広忠から海路を守る大浜砦の守将を命じられている。

天正4年(1576年)大浜に三河・羽城が築城されると、父・長田重元と永井直勝が守備した。
徳姫(織田信長の娘)が築山殿(徳川家康の正室)と松平信康(徳川家康の嫡男)の罪状12か条を記述すると酒井忠次が織田信長に届ける。
すると1579年8月3日、松平信康は岡崎城から三河・大浜城に移された。
その頃、長田氏は三河・岡崎城の松平信康(徳川家康の嫡男)に仕えたいたため、徳川家康は信頼できる家臣に一旦預けたとも受け取れる。
その後、松代に信康は遠江・堀江城、さらに遠江・二俣城に移され9月15日に切腹した。
この間、1ヶ月以上あり転々と移動させているため徳川家康は松平信康に逃げるチャンスを与えたとも推測できる。
また、この事件にて永井直勝らは約1年間、謹慎していたようだ。

戦国時代の三河・大浜城がその宝珠寺付近にあったと推測できるが同様に場所は特定されていない。

三河・大浜城

1580年、徳川家康の家臣に復帰。
この時、先祖の長田忠致が源義朝を謀殺した家号であることから、徳川家康の命にて永井直勝(長田直勝)は大江姓永井氏と姓名を変え、以後の子孫は永井氏を称している。
ただし、長田氏の家名は弟・長田重吉の家系が継いだ。
なお、兄・長田尚勝は三河・東端城を築いたともある。

1582年、本能寺の変のあと神君伊賀越えとなり、白子(三重県鈴鹿市)に到着した徳川家康一行に船を出して迎えて伊勢湾を横断すると、三河・岡崎城からの迎えの軍勢が来るまで大浜で饗応したとある。
三河・西尾城の酒井重忠も一緒に白子に行ったようだ。

1584年、小牧・長久手の戦いで、永井直勝は池田恒興(池田輝政の父)を討ち取る大手柄を挙げた。
このとき、永井直勝は兄・長田尚勝に代わって三河・東端城(1000石)を本拠とした。
<注釈> 兄・長田尚勝は大浜上之宮神社の神官になった。
永井直勝は池田恒興の首を御神体として屋敷の敷地内に池田神社を建立したと言う。

永井直勝の正室は阿部正勝の娘で、1587年に嫡男・永井尚政が誕生している。

側室としては1582年に迎えた由利姫(三河・寺津城主である大河内秀綱の次女)がいる。
しかし、不義の為1585年に離縁したとあり、永井伝八朗直勝が不在していた際に実家に戻る途中、ゆり姫は根崎町にて自害したとも。
根崎陣屋跡に由利姫塚(百合姫之祠)があるようだ。

1590年、徳川家康が江戸城に移った際には、相模国・上総国にて知行5000石となっている。

1592年、朝鮮攻めでは肥前・名護屋に出陣。
1593年、父・長田重元が大浜で死去。

1600年、関ヶ原の戦いのあと、近江国に2000石を加増された。
1616年、大坂の陣では豊臣秀頼の切腹を見届けたともされ、永井直勝は上野・小幡城にて小幡藩1万石となり大名に列した。
1617年。常陸・笠間城にて3万2000石とり、1619年に広島藩主・福島正則が改易されると安藤重信、本多忠政とともに城請け取りの上使役をつとめ合計5万石となった。
更に1622年、出羽・山形城の最上義俊が改易された際にも本多正純とともに城請け取りの上使役をつとめ、下総・古河藩で7万2000石。
1626年、永井直勝は死去。享年63歳。


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家督は長男・永井尚政が継いだがこのとき既に老中になっており、古河城にて8万9000石となっている。
長男・永井尚政は永井信濃守尚政であり、江戸屋敷があった場所は、新宿の信濃町の地名となった。
なお、幕末には江戸幕府の若年寄として大政奉還にも貢献した永井尚志を出している。

さて大浜の話に戻すが、三河・羽城に関しては、現在ある大浜陣屋跡と同一の場所と考えられているようだ。
前述のとおり三河・羽城(はねじょう)は、戦国時代の1576年に徳川家康の命で築かれた。

三河・大浜陣屋に関してはもっと後の時代になる。
江戸時代中期の明和5年(1768年)に駿河・沼津藩主の水野家が大浜付近6000石の加増を受け、明和6年(1769年)から明治5年(1872年)まで、三河・大浜陣屋を置いた。
現在、碧南市大浜陣屋広場として近代的な公園として整備されている。


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また、常行院(碧南市本郷)には三河・大浜陣屋の裏門が移築されていると言う。

交通アクセス

三河・羽城(大浜陣屋)への行き方だが、碧南駅から500mほど8分ほどで、公園にと入れも整備されている。
ただし、駐車場は見当たらなかった。
大浜陣屋の場所は当方のオリジナル地図「名古屋・北陸方面」にてポイントしている。
オリジナル地図「名古屋・北陸」方面
スマホ画面などで表示して「検索窓」から検索して、カーナビ設定することでも使用可能。(徒歩ナビとしても可能)

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
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