宮崎県

日向・西城~山陰百姓一揆の舞台にもなった宮崎県の山城

日向・西城

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日向・西城(にしの-しろ)は、宮崎県日向市東郷町山陰丙にある丘城(平山城)で、耳川の比高40mの断崖上にあります。

戦国時代の天文年間(1532年~1555年)には、伊東氏家臣・米良喜内則村の居城「山陰城」の支城となっていました。
海岸線の平野部からは、だいぶ入った山間部となります。

日向・西城

伊東48城の1つである山陰城とは約2kmほど離れています。

島津家により伊東氏が日向から敗走すると、隣の山陰城には島津家の家臣・吉田右衛門が入っていますので、西城にも、恐らくはその吉田氏の家臣が入部したと推測できます。
日向・西城の本丸は、結構、深い堀切にて遮断されていました。

日向・西城

なお、江戸時代には延岡藩の領地となりましたが、圧政に耐えかね、1690年(元禄3年)には「山陰百姓一揆」(山陰・坪谷村一揆)が勃発しています。

山陰百姓一揆

なんでも3年連続の凶作で、延岡藩臼杵郡代・梶田十郎左衛門と、代官・大崎久左衛門らの取り立ては厳しく、300戸1422名の農民が村を捨てて都農町の股猪野(またいの)へ逃散したようです。
しかし、高鍋藩に捕まり、飯米などの支援を受けたと言いますが79名の農民が死亡。
結局は徳川幕府が江戸城下の評定所にて判定することになり、農民らは減税を勝ち得ますが、逃散した罪は罪として首謀者の百姓は磔が2名、打首12名、遠島(八丈島)7名という犠牲も出しました。
なお、郡代・代官は追放(60国お構い)、藩主の有馬清純は政道不行届として越後・糸魚川に転封の裁定が下り、山陰村、坪谷村、下三ヶ村は天領となりました。

日向・西城

このような百姓一揆の記念碑もありますが、現在は西城公園として整備されており、とても歩きやすいです。
北の堀切と主郭の間には、なかなか風情ある「橋」も掛かっていますが、西城に関する案内版などは無いようです。


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成願寺というお寺の東側の山頂にあり、春には約200本の桜や約2000本のツツジが咲き乱れますが、桜の見頃は3月下旬~4月上旬となります。
交通アクセスですが、結構、山側に入りますので、公共交通機関では不便です。
日向・西城の見学所要時間は20分といったところです。
場所は当方のオリジナル九州地図にてわかるようにしてあります。

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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