日向・宮崎城とは
日向・宮崎城(みやざきじょう)は、宮崎県宮崎市池内町の山城で、別名は池内城、龍峯城とも言います。
自然の地形を巧みに利用した標高92m・比高70mの山城で、本丸(椎城)、野首城、服部城、彦右衛門城、百貫城などの独立した曲輪で構成されており、船ヶ崎・万願寺・目引・野首と4つの登城口があります。
最初の築城は不明ですが、これら郭の名称は、守将の名前からとったものだとされています。
南北朝時代の建武2年(1335年)に、図師随円・図師慈円の父子が宮崎城にて南朝方として挙兵しています。
この時、図師慈円(図師六郎入道隋)は、北朝方の縣城主・土持宣栄(県土持氏)の攻撃を受けて落城しました。
その後、宮崎城の曽井氏を攻め滅した伊東氏の所領となり、伊藤氏の一族である伊東県氏が宮崎城主だったようです。
しかし、文安3年(1446年)に島津家に内応したため伊東祐堯が曽根城を攻略し、宮崎城には家臣の落合彦左衛門が入りました。
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1534年、伊東家の家督を継いだ伊東祐吉が宮崎城を本拠としますが、これは都於郡城が焼け落ちていたからとなります。
その後、伊東義祐が還俗して家督を継ぐと、伊東家の本拠は佐土原城になりました。
しかし、佐土原城が火災となった際には、一時、宮崎城に入り飫肥城攻略の拠点としますが、のち都於郡城が本拠と転々しています。
1541年、伊東家の家臣・長倉祐有(長倉能登守祐有)が島津忠良に寝返り、伊東義祐との大淀川の戦いがこの宮崎平にて発生しています。
島津勢は、島津蔵人頭、日置美作守、羽島上総守らで名のある武士56人、兵300余人が討死。
長倉勢は400人あまりが亡くなり、長倉祐有も命を落としました。
その後、宮崎城には肥田木越前守(肥田木勘解由左衛門尉)や、長嶺紀伊守、肥田木越前守、肥田木勘解由左衛門尉などが入って、伊東氏48城のひとつとなり、伊東家全盛期を迎えています。
1578年、伊東崩れで伊東義祐が大友宗麟を頼って逃れると、がら空きとなった宮崎城には、島津忠朝(島津豊後守忠朝)が入り、天正8年には上井覚兼(上井伊勢守覚兼)が城主になっています。
その後、豊臣秀吉の九州攻めにて、延岡城(縣城)を任された高橋元種の所領となり、高橋家臣の権藤種盛(権藤平佐衛門種盛)が宮崎城に置かれました。
しかし、1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの際に、高橋元種は兄の秋月種長と共に、西軍として大垣城にて籠城していたため、九州にいた東軍の伊東祐慶の家老・稲津重政(稲津掃部助重政)が清武城から軍を動かし、宮崎城代・権藤種盛は討死し1日で落城しました。
この宮崎城の戦いの翌日、大垣城にいた高橋元種は東軍に寝返って本領安堵となったため、のちに宮崎城も高橋元種に返還されています。
日之江城主・有馬直純が延岡城に移封されると、宮崎城も有馬氏へ引き継がれましたが、一国一城令で宮崎城も廃城となりました。
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なお、現在、宮崎城の本丸と服部城は少しだけ整備されていると言いますが、その経路も荒れており、他は雑木林になっており、また駐車場がないことから、登城は控えさせて頂きました。
・都於郡城~伊東家の本拠として素晴らしい大規模な山城
・佐土原城~伊東家の本拠としても栄華を誇り天守もあった山城
・伊東祐堯~日向伊東氏の中興の祖とされる名将
・伊東義祐~日向から南九州の覇権を争うも伊東崩れで没落
・伊東祐兵~所領を失うも巧みに戦国を生き抜き3万6000石にて復活
・延岡城(縣城)~延岡市をいつまでも見守る石垣も立派な城
・日向・飫肥城と風情ある城下町は超オススメの観光スポット
・3分でわかる高橋元種~延岡城を築いた初代の延岡藩主
・日本全国「お城マップ」オリジナル地図カーナビにも
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