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三河・岡城とは
徳川家康(とくがわ-いえやす)は若い頃から数々の戦いに身を投じてきましたが、その中でも関ケ原の合戦や小牧長久手の戦いに代表されるような野戦は得意な反面、2度に渡る上田城の戦いの失敗で『徳川軍は攻城戦が苦手』と言う印象が大きいようですが、若い頃の三河統一戦でも多くの城攻めで苦心しています。
桶狭間の戦いで今川義元(いまがわ-よしもと)が討ち取られ、独立した徳川家康は三河統一に向けて反松平勢が支配する幾つもの城を攻略していくのですが、中でも蒲郡市にある上ノ郷城と岡崎市にある岡城の攻略は三河統一の初期に特に苦戦を強いられた2城になります。
岡城は徳川家康が産まれた岡崎城より南西に約5km、乙川と竜泉寺川の分岐点に築かれた平城です。
乙川は矢矧川の支流とは言え、上流まで辿ると設楽地区や作手地区に抜ける事ができるため交易路としても利用されていたと考えられ、東海道沿いを流れる竜泉寺川との交点に築かれた岡城は規模は小さいながらも様々な意味で重要な役割を担った城だったと思われます。
歴史
江戸時代中期の元文4年(1740年)に編纂された書物の中に、三河地方の古城や古屋敷、古墳墓などの来歴等を記した『三河国二葉松』と言う書物があり、その中で岡城は
【額田郡 岡村古城 池野大学 松平蔵人信孝 板倉弾正 永禄4年神君御出陣 河合勘ヶ由左衛門 】
と紹介されていますが、築城者と考えられている池野大学(いけの-だいがく)はおそらく室町時代の人物であろうと言う程度しか判っておらず、岡崎市下青野町にあった池野の地に由来する土豪だったと考えられます。
また、同じ池野姓の人物で徳川家康の家臣に池野浪之助(いけの-なみのすけ)と池野水之助(いけの-みずのすけ)と言う兄弟がおり、三河一向一揆鎮圧や姉川の戦いなどで戦功を立てている他、元和8年(1622年)酒井忠勝が山形県の庄内藩に移った時に池野姓を持つ家臣も同行しており、現在も山形県庄内地方では池野姓の方が多くおみえになるようです。
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池野大学の次に城主となった松平信孝(まつだいら-のぶたか)は徳川家康の祖父である松平清康(まつだいら-きよやす)の弟にあたり、合歓木郷(岡崎市合歓木町)を領有し、弟の三男松平康孝(まつだいら-やすたか)は三ツ木(岡崎市三ツ木町)を譲られます。
松平信孝は弟の死亡後、本拠を三ツ木に移し三木松平氏の初代となりました。
天文4年(1535年)尾張に侵攻した松平清康は部下の裏切りに会い陣没します。
勢いにのった尾張の織田信秀(おだ-のぶひで)は岡崎城に襲い掛かりますが、松平信孝、松平康孝の兄弟は協力して尾張勢を撃退します。
しかし、松平清康の跡を継いだ松平広忠(まつだいら-ひろただ)は大叔父にあたる桜井松平家の松平信定(まつだいら-のぶさだ)に本拠地の岡崎城を奪われて追放されてしまいます。
その後、松平信孝ら松平一族と大久保氏らの働きで松平広忠は岡崎城に復帰を果たします。
松平信定は、父親で出家し道閲を名乗っていた宗家5代目の松平長親(まつだいら-ながちか)を頼り大樹寺に走り、とりなしによって松平広忠の傘下に収まる事になりました。
この時の功によって、弟の松平康孝の所領や、岩津城を本拠として勢力を保っていた同じ松平一族の岩津松平家の領地などを併呑して勢力を増していき、岡城もこの時に勢力下に収めたと考えて良いでしょう。
天文8年(1538年)桜井松平信定や青野松平義春(まつだいら-よしはる)らの古老が相次いで死去し松平信孝の勢力が増強していく反面、若くして宗家を継いだ松平広忠は実権が失われていく事に危惧を覚え天文12年(1543年)に松平信孝を家中より追放する事を決意します。
この時の松平信孝の言葉を『三河物語』では
【何事ぞや。我、広忠へ対してご無沙汰の心、毛頭更になし】
(意訳)何ということか。私(松平信孝)は宗家である松平広忠をないがしろにするような気持ちは、毛頭考えたこともない。
と記載し、松平信孝が松平広忠に対して弁明を試みた事を伝えています。
しかし、この弁明は聞き入れられず、家中から追放同然の処遇にあったため、松平信孝は松平広忠を後押しする今川氏と敵対する尾張の織田氏に与する事になります。
翌天文13年(1544年)松平広忠は正妻於大の方の実家である水野氏が織田氏と和睦した事により、於大を離縁して水野家に送り返し、天文16年(1547年)には今川義元(いまがわ-よしもと)の元へ嫡子の竹千代(後の徳川家康)を人質として駿河に送り出します。
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西三河に対する今川氏の勢力が拡大していき、織田氏に与した松平信孝は情勢の不利を悟り、岡崎城の南にある耳取縄手で合戦に挑みますが、河原に出る際に松平広忠勢の矢にあたって討ち取られてしまいました。
『三河物語』には、松平信孝の首を見た松平広忠は涙を流しながら
【この度、敵をなし給う事も、ちがいめ更になければ、恨みと更に思わず】
(意訳)今回は、お互いに敵同士になってしまったが、気持ちの違い(松平家の家名を残す事?)は全く無かったのだから、よもや恨みなどということは考えられない。
と伝えています。
その遺骸は松平信孝の元の配下で『三河物語』の作者ある大久保忠教(おおくぼ-ただたか)を始めとした大久保氏発祥地である上和田の浄珠院に葬られました。
岡崎城一帯から織田氏の勢力は徐々に駆逐されていき、松平氏支配下の城には今川家の家臣が送り込まれて来る中、松平一族の主要拠点である岡崎城と安翔城、深溝城の中間に位置する中島城には板倉弾正が入城します。
この板倉弾正は経歴が不明の人物で、一部の史料には康忠や守定、重定などの名前が記載されており、今川氏から渥美郡細谷郷(現在の豊橋市細谷町一帯)を与えられた事が分かっています。
当時の中島城一帯は深溝松平家の配下板倉好重(いたくら-よししげ)が父祖の代から支配する土地であり、板倉氏の系図を辿ると足利氏に繋がる名門ですが、その系図に板倉弾正の名前を見る事ができないため、末端の分家がいち早く今川家に従って領地を得たか、新たに得た支配地の安定を図るために今川氏が麾下の一人に『板倉』姓を与えて送り込んできた(※注)可能性もあります。
※注:
一部の史料にはかつて中島城を支配していた由良家の末裔が板倉弾正とする物もあり、由良家が深溝松平家に滅ぼされた時に駿河に逃亡。その後、今川氏の力により元の領地に戻されたと伝える物も残されているようです。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が陣没すると、岡崎城の松平元康は今川家からの独立を決意。
中島城も松平勢に攻め落とされ、板倉弾正は岡城へと逃げ込んで行きます。
この時、岡城には川合宗在(かわい-むねあり)が僅かな手勢と共に在城しており、板倉弾正と共に籠城します。
これに対し、松平元康自ら軍勢を率いて攻め寄せますが、城の北を流れる乙川と西から南へと流れる竜泉寺川を天然の堀とし、城内には高さ3m程にも及ぶ土塁と空堀を築いて守りを固めます。
城内の兵力を寡兵と見た松平元康は力攻めを仕掛けますが、寡兵ながらも川合宗在は攻め手を寄せ付けず、時には城から討って出て渡河するなど、直線的な攻撃を繰り返す松平軍を幾度となく撃退します。
川合宗在らの活躍で岡城で松平軍の足止めに成功していた今川軍ですが、次第に周囲の状況は不利となっていき、岡城を見捨てて板倉弾正は東三河へと撤退し、残された川合宗在は松平軍に降りました。
その後、川合宗在は酒井正親(さかい-まさちか)に属し、酒井家の家老職を務める事になります。
寛延2年(1749)年、酒井家が姫路藩に転封になった際、台風による水害が城下を襲い数多くの被災者が出ましたが、家老の川合定恒(かわい-さだつね)は独断で被災者を場内に収納し、備蓄米を提供するなど数多くの人民を助けるなど名臣が続き、幕末まで姫路藩の支えとなったと言われています。
天正12年(1584年)小牧長久手の戦いで争った羽柴秀吉と和睦をした徳川家康は岡城を岡村御殿と呼ばれる宿所として改修し、関東移封の後は上洛する際の宿泊所として利用していたと言われています。
当時の御殿の様子は三河名勝志の「御殿址」の項に次のように書かれています。
【岡村西より二町余り過ぎて、一の木戸門あり。小径数百歩、両側皆竹林なり。大手門の跡とおぼしき所、左右に土手、空堀あり。これより内方一町ばかり平衍にして樹竹なく、草野の如し。西より南へ廻り、土手、空堀あり。・・・・・・云々】。
現在の岡城跡も竹林に囲まれ、土塁と堀が残されています。
交通アクセスと登城
推奨ルート:
※駐車場は無いため、徒歩での訪問となります。
名古屋鉄道美合駅→(徒歩約15分)→岡城
美合駅から北東へ進み、国道1号線のほたる橋南の信号交差点を東に入ります。
岡崎西側の信号交差点を北に50m程進んだ所が城跡の入り口となります。
〇削平地(曲輪)だったと思われる地は、竹林に覆われています。
その他関連施設等
○桜井城の看板
桜井城
安城市桜井町城阿原(城山公園)
城山公園に城址碑は立っていますが、桜井城は公園北西の住宅地一帯にあり、発掘調査なども行われています。
○犬飼湊の碑
蒲郡市竹谷町犬飼55
海岸線は近いものの、一帯の埋め立ては進み、民家の入り口脇に碑が残されているのみです。
○松平信孝の墓(浄珠院)
岡崎市上和田町北屋敷55
浄珠院南側にある墓地の北東角に松平信孝の墓は立てられています。
○中島城跡
中島城
岡崎市中島町後屋敷
一帯は宅地化され、城跡を思わせる遺構などは残されていません。
(寄稿)だい
・三河・伊奈城の解説~徳川家の家紋「三葉葵の紋」発祥の地
・愛知県「源頼朝」由来の地をめぐる~生誕地・熱田神宮周辺など
・三河・川尻城の解説 ~いざ奥平家を再興へ!~
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