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設楽城の解説~伊藤貞久(伊東貞久)・伊藤貞次(伊東貞次)

設楽城

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設楽城

設楽城(したら-じょう)は、愛知県北設楽郡東栄町大字中設楽字北城市にある標高294m、比高40mほどの山城。
天竜川の支流・大千瀬川が大きく蛇行した場所にある天然の要害で、愛知県の山城としては最古の部類らしく、最初の築城は平安時代末期の設楽氏とされる。

設楽氏(したらし) は、三河国設楽郡設楽郷(愛知県新城市、増瑞寺屋敷)が発祥とされ、源義家に従った伴助兼の子孫となる。

鎌倉幕府ができた頃の1190年、設楽資時が設楽八名の領主となって、約120年間を設楽氏が設楽城を治めたとされる。

設楽城

その後、1312年、設楽重清のとき岩瀬郷(愛知県新城市富沢)の岩広城に移ったとされる。

一方、菅原姓の設楽氏の場合として、菅原清能の子・菅原貞衡(設楽弾正大弼貞衡)の2男・設楽時清(設楽左馬頭時清)が、三河国設楽郡(愛知県新城市竹広)の川路城に住んで、設楽氏を称したともある。
このように、設楽氏に関しては複数の家系図や諸説あり、かなり混乱していることから、詳細不明と言ったところだ。


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戦国時代に入ると、天文年間(1532年〜1555年)に東栄町本郷は伊藤氏(伊東氏)が領するようになったようだ。
伊藤貞久(伊東藤左京亮貞久、伊藤左京亮貞久)は、三河・別所城を築いて本城としたが、設楽城も整備して支城としたようだ。
この伊藤貞久(伊東貞久)は、鎌倉御家人・工藤祐経の子・伊東祐時の末裔とされ、伊東祐貞の4男だと言う。
日向にいた伊東氏の一族と考えられるが、伊東祐遠と伊東祐実らが伊勢宗端に従い、伊東祐貞の時には、北条氏綱から「縫殿助」に任じられている。
その後、相模の伊東氏は、相模・青山郷を得るなどし、伊東九郎三郎祐尚は、国府台の戦いで武功を挙げた。
そのうち、伊東祐貞の4男・伊藤貞久(伊東貞久)は、今川義元を頼ったのか?、三河国振草の地頭としてやってきたと言う事だろう。
1505年、まだ伊豆にいた伊藤貞久は、下田の真言宗安養院を、曹洞宗長養院に変えている。
重臣としては、岡本の伊藤兵庫介、下田上屋敷の伊藤八左衛門、足込の川合源三郎(川合砦)らがいたとされる。

設楽城

1542年、子の伊藤貞次が、本郷諏訪社に大鳥居を寄進。
1577年には、本郷諏訪宝殿と本郷岡本の阿弥陀堂を改築している。

1559年、伊藤貞久が死去。
嫡男・伊藤貞次が家督を継いだ。

1560年、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、のち松平元康に従うようになったと考えられる。

1569年1月、伊東貞次は、長篠城の菅沼定景から援軍を得て、遠江・鶴ヶ城主の鶴ヶ山大磯之丞(鶴山大磯之丞)を切腹に追い込み、家老・山田半之丞と、嫡男・熊千代を人質にとったとある。
恐らくは、徳川家康の命なのか?、菅沼定景が動いたので、その軍勢に伊東貞次も加わったと言うのが正しいのだろう。
続いて、伊東貞次も掛川城攻めに加わったが、この戦いは菅沼貞景が討死するほどの激戦であった。

やがて、武田信玄の手が伸びると、1571年、秋山虎繁に敗れた伊東貞次(伊藤貞次)は武田家に降伏。
ただし、長篠城の菅沼正貞はこの時まだ降伏していないため、この頃、設楽城が改修された可能性がある。

設楽城

武田信玄の死後、1575年に「長篠の戦い」が勃発。
伊東貞次(伊藤左京亮貞久)は、武田勝頼を頼って甲斐に逃れたとされ、設楽城も三河・別所城も廃城となった。(北設楽郡史)
ただし、1573年頃に、東栄町を離れたと言う説もある。(本郷町史)
隠棲先は、間黒の庄(豊根村)ともあり、その場合、三河に留まって帰農したと見てよいだろう。


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この奥三河の付近の城跡は、地元の皆様が一生懸命保存・整備されており、気持ちよく訪問できるところが多い。
設楽城も、アクセス道は狭いが、駐車場も整備されており助かる。
そのため、ご紹介にも熱が入るが、日ごろの活動に御礼を申し上げたい。

交通アクセス

電車の場合、JR飯田線の東栄駅から、おでかけ北設・町営バス東栄線に乗車し「戦橋」バス停下車し徒歩10分。(現実的ではない)

設楽城への行き方だが、国道151号から折れて道なりに進むと、やがて山の中に入って行く。
そのまま細い道を登って行った先に駐車場(5台ほど)がある。
駐車場の入口などは、当方のオリジナル地図「名古屋・北陸方面」にてポイントしている。
オリジナル地図「名古屋・北陸」方面
スマホ画面などで表示して「検索窓」から検索して、カーナビ設定することでも使用可能。(徒歩ナビとしても可能)

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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