愛知県

亀穴城(三河・滝山城)の解説~奥平氏を守った堅固な山城(駐車場・登城口も)

亀穴城(三河・滝山城)

スポンサーリンク



亀穴城

亀穴城(かめあなじょう)は、愛知県岡崎市宮崎町堂庭にあり、標高380m、比高は240mほどになる堅固な山城です。
最初の築城ですが、額田町史によると初代城主は奥平信丘とあり、三河・滝山城ともよく呼ばれます。
一般的には、戦国時代の永禄年間(1558年~1570年)に、三河・亀山城の奥平貞能が築いたとされているようです。

亀穴城(三河・滝山城)

このあたりの宮崎郷は、奥平氏にとっては第2の拠点だったようで、麓には主計屋敷・田代屋敷といった館跡もあるようです。
西側には、明見城、黒谷城といった支城もあります。

1573年8月、先の長篠城攻略のあと武田信玄が死去した可能性が高まると、奥平貞能と奥平信昌の親子は、武田信玄から徳川家康に寝返り三河・亀山城から三河・滝山城に移りました。
なお、奥平一族の奥平貞勝や奥平常勝(奥平貞能の弟)らは、寝返る話を一方的にしかも直前に聞かされたようで、奥平貞勝が武田勢に通報しようとしたので、慌てて逃れたとあります。
この謀反にて、奥平定能の次男・仙千代、3男・虎之介、奥平貞友の娘・おうふなど人質3人が、鳳来寺の麓で串刺し刑になりました。


スポンサーリンク



更に古宮城にいた武田勢は5000にて、8月21日に三河・滝山城の東麓にある万足平に進出し攻撃体制を取りました。
城の防御は柵一重程度で奥平勢も僅か200だったようですが、堅固な山城でもあり、徳川家康の援軍も接近したことや、古宮城への陽動作戦により武田の軍勢は撤退。
奥平勢は果敢にも追撃して田原坂(県道37号岡崎清岳線)にて一撃を加えたようです。(滝山合戦)
滝山合戦の戦没者は万足平の3ヶ所に葬られたと言います。

万足平

1575年、長篠の戦いで、武田勢15000に包囲された奥平信昌は長篠城を死守。
その後、新城城(しんしろじょう)を築城して武田勝頼に備えました。
1576年、徳川家康の長女・亀姫が奥平信昌に嫁いでいます。


スポンサーリンク



さて、亀穴城(三河・滝山城)ですが、県道37号岡崎清岳線の山側沿いに「滝山の滝」があり、石碑と説明看板があります。
しかし、東行きの場合、クルマを止めるところがないので撮影は断念致しました。
西行きの場合、広くはないですが、路肩に1台だけ停車できるスペースがありますが、事故になる可能性もあり危険ですのであまりオススメできません。

交通アクセス

亀穴城(三河・滝山城)への行き方ですが、宮崎神社の脇に駐車スペースがあり、登城口はその奥の集会所付近から険しく登って片道50分ほどのようです。
宮崎神社の脇には、奥平貞能の父・奥平貞勝の墓がありました。

奥平貞勝の墓

駐車スペースの場所などは、当方のオリジナル地図「名古屋・北陸方面」にてポイント致しております。
オリジナル地図「名古屋・北陸」方面
スマホ画面などで表示して「検索窓」から検索して、カーナビ設定することでも使用可能です。(徒歩ナビとしても可能)

軽登山の装備が必要との事前情報もあり、今回は最終的に駿府城まで行く予定で、時間もないので登城は断念致しております。
このあと三河・久保城に寄っています。

奥平貞勝のちょこっと解説~今川・織田・徳川・武田と鞍替えの奥平氏当主
三河・久保城のちょこっと解説~奥平氏の古い城跡と奥平氏4代当主・奥平貞昌
奥平定能と奥平信昌と亀山城~英雄・鳥居強右衛門と長篠城の戦い
田峯城 見事に復元された小規模な山城
三河・文殊山城のちょこっと解説~一夜で築いた作手の山城
三河・亀山城(作手城) よく整備されている平山城


スポンサーリンク



コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

城迷人たかだ

投稿者の記事一覧

高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

都道府県別


スポンサーリンク

只今人気のお城

城めぐり 2400城超えました

城めぐり
PAGE TOP