金丸氏館
金丸氏館(かなまるし-やかた)は、山梨県南アルプス市徳永にある丘城で、金丸氏居館跡とも言う。
甲斐国志によると、曹洞宗の寺院である長盛院の境内が土屋昌続の実家である金丸氏の「数代ノ居址ナリ」との記述がある。
現在の長盛院は、江戸時代の1677年に金丸氏館跡地に移転してきたと言う。
釜無川の段丘上にあり、長盛院の西側には土塁が残されていた。
最初の築城は不明だが、金丸氏は室町時代中期の甲斐武田氏14代・武田信重の子である武田光重が金丸光重(金丸右衛門尉)と称したのが始まり。
甲斐国志によると、途絶えていた鞠部氏の一族である金丸氏の名跡を復興させたとある。
しかし、金丸光重は子に恵まれず、養子に一色藤次(一色伊賀守藤次、一色光信、秋山伊豆守藤次)を迎えてが継がせ、その子は金丸虎嗣(金丸若狭守虎嗣)、その子は金丸虎義と続いた。
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武田信虎に仕えていた金丸虎義(金丸筑前守虎義)は、板垣信方と並んで武田晴信の傅役も務めた重臣。
金丸虎義の子は下記の通り。
→ は子
長男・金丸昌直(金丸平三郎昌直) → 金丸定政 → 金丸成政
金丸昌直は、真田昌幸、三枝昌貞、曽根昌世、甘利昌忠、長坂昌国らと奥近習六人衆として武田信玄の近くに仕えたので、このメンバーは、武田信玄から「昌」の字を共通して与えられている。
次男・金丸昌次(金丸平八郎昌次)は1544年生まれで、16歳のとき川中島の戦いに初陣し、奥近習から譜代家老衆に列した。
そして、土屋昌遠の跡を継いで土屋昌続(土屋右衛門昌続) となる。子には → 金丸信尚(土屋信尚)・金丸重卿(依田重卿)
1575年、長篠の戦いで討死。享年31。
3男・金丸左衛門佐昌詮は、秋山信友の跡を継いで秋山昌詮となるが1575年死去し、8男・金丸親久が秋山氏を継承。
4男・金丸道助昌義
5男・金丸定光(金丸助六郎定光) → 金丸定信 → 金丸吉次・金丸重次
6男・金丸昌忠(金丸惣三昌忠) → 金丸昌次
7男・金丸惣八郎正直
8男・金丸源三親久(秋山親久)は兄で3男の秋山昌詮が死去したあと秋山氏を継ぐも、武田勝頼の逃亡に最後まで従い天目山田野で殉死。
9男・金丸昌恒(金丸惣蔵昌恒)は岡部長宗を嗣いだが、兄・金丸昌次(土屋昌次)のあとを継いで土屋昌恒(土屋右衛門昌恒)となり、武田家滅亡の際には「片手千人斬り」と勇名を馳せた。
子は金丸惣蔵忠直 → 金丸平八郎利直・金丸但馬守敷直(金丸数直)・金丸之直
10男・金丸景氏(秋山景氏)など
土屋昌恒と岡部元信の娘の間に、武田家滅亡時の1582年に生まれた土屋忠直は、母と駿河に逃れたあと成長すると徳川家康に仕え、井伊直政の与力となる。
徳川家康が江戸城に入ると、1591年、相模にて3000石。
1602年には上総・久留里城主となって2万石で久留里藩主となった。
土屋忠直の長男・土屋利直は徳川秀忠の近習となり、弟・土屋数直は徳川家光の近習を務めたのち、常陸・土浦城に入って土浦藩主となり、江戸幕府の若年寄・老中を務め4万5000石を有した。
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なお、名門・土屋氏の発祥は、相模・土屋氏館であり相模・中村氏の一族・土屋宗遠となる。
室町時代に土屋氏嫡流と考えられる土屋景遠は、北条早雲の小田原城奪取などで大森氏と共に没落し、子である土屋勝遠が、甲斐国守護である武田信昌の娘を妻にし武田一門となっている。
その子・土屋信遠が武田信虎の家臣になったので、戦国時代には甲斐の土屋氏が本流の可能性がある。
しかし、土屋昌遠のとき、1514年、武田信虎が駿河今川氏に預けられた際に、土屋氏は一緒に駿河に同行したようだ。
そのためか?、甲斐での土屋氏が断絶したので土屋昌続・土屋昌恒らが継承したのかも知れない。
交通アクセス
金丸氏館(金丸氏居館跡)の場所だが当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂ける。
駐車場は無いようだ。
近くには土屋惣蔵昌恒の墓(土屋昌恒の墓)もあるので、徒歩であればセットでどうぞ。
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