陸奥・小田山城
陸奥・小田山城(おだやまじょう)は、福島県会津若松市門田町黒岩にある山城で、標高は372m、比高130mほどになります。
南北朝時代の1354年頃に、芦名直盛が築いたとされますが、鎌倉時代の後期頃から、砦程度として機能していた可能性はあります。
小田山城の中腹にあった観音堂(宝積寺)は、1354年に、芦名盛員の継室・笹谷御前が創建したとありますので、同じ時期に、小田山城も改修なり、行われたと見て良いかも知れません。
その頃、蘆名氏は、北田城の大庭政泰や、陸奥・新宮城の新宮盛俊など、同じ一族で争いとなっていたため、防衛を強化したようです。
更に、1383年、葦名直盛は、家臣の平田明範と富田祺祐に、小田山城の修築を命じています。
そして、1384年から、葦名直盛は、会津・黒川城(鶴ヶ城)の前身となる、東黒川館に居館を移しているため、小田山城は詰の城として、重要視されていたと考えられます。
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しかし、戦国時代になり、1568年、芦名盛氏は、より堅固な、向羽黒山城を築いていることから、小田山城は使われなくなったようです。
また、山麓は、墓所としても使われており、会津藩・家老などの墓も点在しているようです。
新政府軍、8門のアームストロング砲の有効射程距離は1500m。
この小田山城の中腹に設置した砲台跡から、会津・若松城の天守まで距離1360m。
約60mほど、見下ろす形になり、1日1000発の砲弾を発射したと伝わります。
観音堂も、戊辰戦争で焼けました。
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なお、会津若松には、日本陸軍の歩兵第29連隊と、歩兵第65連隊が配備されていたため、小田山城跡では、実弾訓練も行われたようです。
ガダルカナル島の戦いでは、歩兵第29連隊が、大きな被害を受けています。
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・会津若松城(会津・黒川城)の歴史をわかりやすく解説【日本100名城】
・陸奥・北田城の解説~会津盆地の真ん中にある館跡
・向羽黒山城のちょこっと解説【続日本100名城】東北屈指の壮大な山城
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