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城所城のちょっこっと解説~糟屋盛直・城所正揚

城所城

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城所城とは

城所城(きどころ-じょう)は、神奈川県平塚市城所にある元・平山城です。
現在ある浄心寺の裏側(北側)に、城所館があったようです。
元・平山城と記載させて頂いたのは、今は、山が無く、平坦な土地となってしまっているため、このような記載にさせて頂きました。
現地に「城所山」と言う地名が残っているように、かつて、浄心寺の裏側には、標高30mほどの小高い山(比高22m)があったそうです。
太平洋戦争中には、海軍の高射砲陣地「城所砲台」(十二糎高角砲2門、高射機関砲)も設置されていたと言います。
しかし、昭和41年頃、東海道新幹線の線路建設の際に、築堤を築く際の採土が行われ、山は切り崩されたそうです。


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ただ、城所城としての歴史は結構古くから続いていました。
この付近は、平塚あたりまで、糟屋荘(糟谷荘)とされていますが、嵯峨天皇に仕えた藤原冬嗣(ふじわら の ふゆつぐ)の子孫である糟屋権守・糟屋盛久が、相模・糟屋館にいます。
平安時代の1017年~1037年頃、糟屋盛久の4男・糟屋盛直が、木所(城所)に領地を与えられ、城所氏を称しました。
その頃、城所(木所)の一帯は沼地だった模様です。
なお、糟屋盛久の子は、糟屋有季が宗家を継いだ他、他の子はたくさん分家しており、四宮光久、新開義久、白根信季、伊木五郎(沼目五郎)、櫛椅余一(串橋余一)、善波十郎、見四根余三など、伊勢原近くの土地の名前としても見受けられます。
ただ、この時代、養子をもらったり、養子を出したりとケースも、想像以上に多くみられるため、全員が実子とも限らないところです。
また、鎌倉時代ですと、山の上には、城がないことの方が多いですので、麓に城所館があり、山は、見張台程度に使用していたと考えられます。
ともあれ、日本全国、城所さんの発祥地であることは、間違いないでしょう。


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糟屋四郎盛直(糟屋盛員)のあとは、城所有政と続きましたが、その後は、よくわからず、室町時代初期に再び城所氏が登場します。
観応年間(1350年~1352年)、城所城には、城所正揚が居住しており、代々同家の拠点になっていたとあります。
この城所正揚(城所藤五郎正揚)は、鎌倉幕府の倒幕にて功があり、足利尊氏から吉沢郷(平塚市上吉沢付近)を加増されたともされます。

そして、城所氏は、石見にて高師泰と共に、三角入道の反乱を鎮圧した武功により、三河・大野田城を与えられました。
城所直賢(城所藤五郎直賢、城所藤五郎浄古斉)の時、三河・大野田城に、本拠を移したようです。


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戦国時代には、田峯城主・菅沼定忠の家老に、大野田城の城所道寿(城所直賢の子とも?)、城所清蔵、他にも城所八郎四郎などの名があります。
1571年、菅沼定忠は、徳川家康から離反して、武田信玄に従っており、城所道寿は、三方ヶ原の戦い野田城の戦いなどにも武田勢として参じました。
ただ、1582年、武田勝頼の滅亡後、菅沼定忠と共に、城所氏は、誅殺されたともされます。


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その戦国時代、三浦義同が相模・岡崎城にて勢力を張っていますので、城所城は、相模・岡崎城の出丸として使用されたものと推測できます。

交通アクセス

浄心寺への行き方としてご紹介申し上げますが、小田急電鉄・伊勢原駅から路線バスにて、新道城所入口バス停下車となります。
伊勢原駅から歩くと徒歩25分くらいの距離です。
浄心寺の山門の左から入ると、駐車スペースがあります。
もちろん、相模・岡崎城とセットでどうぞ。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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