真土城とは
真土城(しんど-じょう)は、神奈川県平塚市東真土にある平城で、杉浦屋敷(杉浦藤左衛門屋敷)とも呼ばれます。
遺構は無いのですが、真土神社の境内に、真土城があったことを解説する石碑があります。
その真土神社は、相模・平塚城と同じように、若干、高い台地(比高10mほど)の先端にあると言う感じです。
実際には、東の低い土地のほうが、真土城跡(杉浦屋敷跡)ともされますが、まぁ、見張り台のような感じで、真土神社の場所も城の一部であった可能性はあるでしょう。
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国道129号にある、リンガーハットの駐車場と、ラーメン山岡家の駐車場の間(奥)には、杉浦藤左衛門の首塚があるようです。
この首塚は、松本半兵衛、伊藤三郎兵の2人が建立したものですが、杉浦藤左衛門は、1590年、小田原攻めの際に、豊臣勢の徳川家康の軍勢と、なんと、平塚で戦ったとあり、杉浦一族と共に、討死したとされます。
城主であれば、小田原城に入っていたものと推測されますが、老齢などの理由で、代理の者が、小田原城に詰めていたのでしょうかね?
小田原城の三の丸には「杉浦平太夫」の屋敷・館があったと言う伝承があり、発掘調査も行われています。
三の丸の郭を防御する、守将のひとりが、杉浦平太夫と言う事で、それなりの武将と推測できますが、平塚の杉浦氏との関連はわかりません。
また、江戸時代には、相模国の茅ヶ崎市小和田・菱沼、平塚、四之宮、寒川町宮内、平戸と、丹波国の桑田郡馬路を領したのも、杉浦氏です。
四之宮・平塚は、まさに、杉浦屋敷があった場所です。
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ただ、この杉浦氏は、三河で徳川家康に仕えていた、杉浦勝吉(杉浦八郎五郎勝吉)8000石でして、杉浦氏陣屋は、横浜市戸塚区平戸に置かれていました。
ちなみに、杉浦勝吉は、鎌倉幕府の和田義盛からの一族です。
となると、相模の杉浦藤左衛門も、三河の杉浦勝吉と、何か、関係があったのかな?とも感じてしまいますが、確かめるすべは、もはやありません。
付近の道路を拡張する際などの発掘調査では、杉浦藤左衛門より100年くらい、古い時代の遺物が見つかっているとの事ですので、もう少し、古い時代から館があったとも考えられます。
真土略誌によると、相模・杉浦館主の杉浦氏の前には、関彌次郎?なる武将の領地だった可能性もあるようです。
この関弥次郎は馬廻衆で、相模真土と今里にて、知行25貫文余とあります。
実質的には、国道129号も屋敷内だった可能性があり、杉浦屋敷の中心は、リンガーハットの西側と考えて良さそうです。
交通アクセス
相模・平塚城への行き方ですが、JR東海道本線の平塚駅「北口」より、路線バスで、市場前バス停下車となります。
周辺の道路は狭く、住宅街でして、コインパーキングも見当たりません。
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真土神社の南側の道路が、若干、広く、消防車の通行も大丈夫そうで、駐車禁止の標識もなかったので、やむを得ず、2分だけ止めさせて頂き、写真撮影を致しました。
この付近は、田村の渡し(相模川)から続く、中原街道も、南下していたようでして、本当であれば、もう少し、じっくりと、散策したいところです。
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