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真芳寺砦(墨染館)とは
真芳寺砦(しんぽうじ-とりで)は、神奈川県平塚市大神にある平城(標高10m)で、墨染館と書く場合もあるようです。
相模川の西岸にあり、西に広がる低地(田んぼ)と、相模川に挟まれたち土地と言え、厚木から平塚に抜ける交通路と言えます。
今でも、本厚木と平塚を結ぶ路線バスは、大神の集落をとおります。
真芳寺の開基は1478年(文明10年)で、開山は、仁忠良義禅師とされます。
仁忠良義(にんちゅうりょうぎ)禅師は、小田原城の北条氏一族だったと言います。
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すなわち、北条早雲(伊勢宗瑞)の縁者だと考えられる訳ですが、北条早雲が、駿河・興国寺城を与えられたのが、1487年でして、小田原城に入ったのは1495年頃と推測されます。
となると、北条早雲が相模に入るより15年以上前に、北条氏の縁者が真芳寺の住職になったと言う事でして、北条家との関連性には、少し疑問が残ります。
仁忠は、1533年死去とありますので、年代は合うのですが・・。
1512年に、相模・岡崎城を北条早雲が攻略した頃には、真芳寺の僧兵も、北条氏に従ったものと存じます。
ただし、小田原城の北条氏が、真芳寺を庇護したのは間違いないでしょう。
相模国風土記稿によると真芳寺は「大上山と号す、曹洞宗、津久井縣根小屋村功雲寺末、開山仁忠、天文二年三月廿日卒、小田原北条の支族と云、天文十七年二月、北条氏より採事を許さる。」とあります。
すなわち、津久井城主の菩提寺である功雲寺の末寺が、真芳寺であったとされます。
牛ヶ渕古戦場(大神古戦場)
戦国時代、小田原城は3回包囲されていますが、その1番最初、上杉謙信も、原当麻や金田付近で相模川を渡り、この大神にて宿営もしたようですが、そのときに、大神で戦闘になった記録はありません。
1569年、武田信玄も、原当麻・座間と南下し、相模川を渡りますが、この時には、真芳寺砦(墨染館)に入っていた北条勢が、討って出たようです。
牛ヶ渕の戦い(大神の戦い)となりますが、北条勢は少数だったようで、敗北しました。
真芳寺の北にある隆盛寺の門前(道路わき)に古戦場の碑が建っています。
その後、武田勢は、小田原城を包囲し、撤退した際、鎌倉に行くと見せかけて、北上すると、金田を抜けて、三増峠の戦いになっていますので、恐らくは、帰りも、大神を通行したものと推測できます。
ただ、寺としては格式はあったようで、1591年、徳川家康は、寺領10石の御朱印状を発行しています。
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江戸時代、平塚周辺は鷹狩場となっており、平塚には宿泊・休憩用の中原御殿も造営され、徳川家康も度々、江戸城から平塚にやってきています。
ある日、賊徒が徳川家康一行を襲撃したともされ、徳川家康が、真芳寺に逃げ込んで、難を逃れたことから、寺領を寄進したという伝承が残されています。
それ以来、真芳寺は、庶民の出入を許さない寺として、山門は不開門となり、公事以外に、門が開かれることはなかったと言います。
絶対に開かなかったと言う不開門は、関東大震災で倒壊し、その後は、再建されていないようです。
交通アクセス
小田急線の本厚木駅・南口、または平塚駅から、本厚木~平塚間のバスに乗車して、所要23分、真芳寺バス停下車、新幹線を越えて、徒歩2分となります。
駐車場は、真芳寺さんの駐車スペースを拝借できます。
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