大穴城(おおあな-じょう)は、埼玉県坂戸市東坂戸1丁目にある平城で、東坂戸団地の一角にある大穴城跡広場が城跡とされます。
緩やかな河岸段丘上にあり、別名は、大穴館、大穴山館とも言います。
最初の築城としては、室町時代の中期に、砦規模程度として使用されたともありますが、城主など委細不明です。
ただし、すぐ近くには、大堀山城などもありますので、関連はあったことでしょう。
南北朝時代に、河越館の河越直重が反乱を起こした際ら、大穴山館は、大堀山城と共に籠城に加わったともあります。
江戸城に徳川家康が入ると、旗本・本多秀玄(本多九蔵秀玄)が陣屋を構えたともされます。
この本多秀玄(ほんだ-ひではる)は、松平家の重臣である本多氏の一族で、父・本多重玄が、三河・寺部城の戦いにて討死しています。
そのとき、まだ幼少だったため、伯父の本多重次(ほんだ-しげつぐ)の養育を受けたようで、のち、本多重次の娘を妻にしました。
そして、築山殿が産んだ、松平信康の小姓を務めましたが、1579年に自害したため、そのあとは、伯父と共に三河・岡崎城の守備にあたったようです。
1582年、織田信忠が甲斐を攻めた際に、徳川勢も同調して武田勝頼を攻めましたが、本多秀玄は、駿府・久能城を攻撃して、中根新十郎城と共に、今福虎孝を討取りました。
1584年、小牧・長久手の戦いでは、偵察を担当し、1590年の小田原攻めのあと、150石となり、大穴城付近に陣屋を構えたようです。
徳川家康が、鷹狩でやってきた際には、大穴陣屋で休憩もしたと言います。
1600年、関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠の軍勢として、上田城の戦いに、嫡子・本多玄盛が参じました。
その後、上総・山野辺に200石となり、移りました。
ちなみに、伯父・本多重次は、於万の方が産んだ結城秀康の養育を任された武将でもあり、その子・本多成重は、越前・丸岡城4万石となっています。
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大穴城への交通アクセス・行き方ですが、東武東上線の若葉駅から、坂戸市循環バスにて「東坂戸団地入口」バス停下車し、徒歩5分です。
予定外の訪問だったのと、駐車場がなく、道路も駐車禁止のため、安全なところで、ハザードを出し、10秒ほど停止しての撮影に留めました。
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