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武蔵・柏原城 柏原氏館跡? 入間川陣城?

武蔵・柏原城

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武蔵・柏原城

武蔵・柏原城 (かしわばら-じょう) は、埼玉県狭山市柏原にある平山城です。
入間川の河岸段丘(標高50m)に築かれているため、単独の山などではなく、台地の東端にある、端崖城(比高10m)と言うとわかりやすいでしょうか?
山ではないのですが、地元では「城山」と呼ばれており、別名は、城山砦、上杉砦、上杉城、柏原城山などがあります。
入間川(いるま-がわ)の水運の抑えてとしても、有効な立地です。


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最初の築城は不明ですが、平安時代末期の豪族・柏原太郎と言う柏原氏の館跡の可能性があるともされます。
柏原太郎は、畠山重忠に従い、奥州藤原氏の征伐で活躍しているのが、見受けられます。

武蔵・柏原城

また、南北朝時代の1353年に、足利尊氏の3男・足利基氏が、南朝勢力に対抗する為、築城した「入間川陣城」の比定地ともされますが、詳しくは不明です。
その後、確実なのは、戦国時代の1545年に、上野・平井城関東管領上杉憲政が築いたとされます。
山内上杉家15代当主・上杉憲政は、北条氏綱に奪われた河越城を攻略するため、半年近くにわたり、武蔵・柏原城に入っていたとされます。
1546年「河越夜戦」(河越城の戦い)で有名ですが、上杉憲政と上杉朝定、そして古河公方・足利晴氏ら関東の諸将が8万ともされる大軍にて、河越城を包囲した際、上杉憲政が本陣を置いた場所とされるようです。
すなわち、臨時の陣城と言えますが、土塁と空堀が見事に残っている模様です。

陣城の規模の為、小さな城域と言え、指揮官クラスを中心に駐屯し、軍勢は周りで野営していた可能性もあるでしょう。
城と言うものは、防衛の意味もありますが、城内にて守備している兵が、怖くなっても、簡単に逃げられないように「堀」などで囲むと言う理由もあります。
上杉勢は、もともと大軍でしたので勝利する可能性のほうが高く、兵が逃亡する恐れが少なかったことから、それでよかったのかも知れません。

河越城の北条綱成・北条綱房・北条幻庵らは、僅か3000でしたがよく守り、小田原城から駆けつけた北条氏康大道寺政繁多目元忠ら8000が、上杉勢に夜襲を掛けました。


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上杉朝定が討死して扇谷上杉家が滅亡したほか、難波田憲重、本間江州、倉賀野行政などが命を落としています。
上杉憲政は、なんとか戦場を脱出し、上州・平井城へと敗走しました。

なお、柏原城と申しますと、伊賀・柏原城もありますので、混同しないように注意が必要です。

今回、予定外の訪問だったため、麓からの撮影に留めました。
台地の上の部分には、駐車場と案内板もあるとの事です。

このあと、河越館跡へ向かいました。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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