阿波・伊沢城とは
阿波・伊沢城(いさわ-じょう)は、徳島県阿波郡阿波町岡地にある平城です。
鎌倉時代の1179年に、伊沢家景(伊沢四郎太夫家景)が館を築いたとされます。
伊沢家景は、源頼朝に従って、多くの戦功を挙げおり、特に文治5年(1189年)の奥州平泉の藤原泰衡を討伐した際には抜群の功績があり、源頼朝より伊那佐和庄一千町歩を賜って「伊沢」と地名を改め城を築いたとされます。
しかし、これをまともに受けると、最初の築城年が1179年ではなくなってしまいまして、不明瞭です。
伊沢城の遺構は残っていませんが、伊沢八幡神社の近くにある蛭田池が、伊沢城の庭園と内堀だったと言われており、その西側の桑園が伊沢城跡と推定されています。
城主の居館は「鎌倉泉」と呼ばれているそうで、伊澤神社には、歴代城主が祀られています。
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戦国時代になると、伊沢氏は勝端城の細川家に従っていたようで、天正4年(1576年)に細川真之が、三好長治に対して挙兵すると、伊沢頼俊は一宮城主・一宮成祐らと呼応して細川真之に味方しました。
そして、天正5年(1577年)3月、荒田野で戦いにて三好長治を追い詰めて自害させたとあります。
この時、伊沢頼俊(伊沢越前守頼俊)は阿波の守護所である勝瑞城に入って、阿波を支配しようとしたとされます。
しかし、矢野駿河守や三好勝時(三好越後守勝時)、庄野久右衛門らが勝端城に迫ったため、僅か20日で勝瑞城から脱出し伊沢頼俊は坂西城に入りました。
そのため、5月に三好長治の残党である引田城主・矢野国村(矢野駿河守)と、阿波・木津城主の篠原自遁によって坂西城が奇襲を受け、伊沢頼俊は誅殺(自害とも)されて伊沢城は落城したとあります。
その後、15代の伊沢綱俊(いざわ-つなとし)が家督を継いだようですが、長宗我部勢の阿波侵攻の際にも伊沢城は落城した模様で、伊沢綱俊は所領を失った模様です。
その後、豊臣秀吉の四国征伐によって、蜂須賀家政が阿波・一宮城に入ると、しばらくは阿波は土豪による一揆が多発しました。
この時、伊沢綱俊が住友彦兵衛らと一揆鎮圧に尽力したため、蜂須賀家によって、伊沢綱俊は与頭庄屋に任ぜられ、代々続き、ご子孫は現在に至っているそうです。
また、ご子孫は阿波藩の土木事業にも功績がありました。
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なお、戦国期に伊沢頼政と言う武将の名も見受けられますが、どの代に入ってくるのか?、それとも一族や子なのかなど、不明です。
もし、ご存知の方がおられましたら、コメント欄にでも情報を賜りますと嬉しく存じます。
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