茨城県

山川綾戸城の解説 山川晴重

山川綾戸城




山川綾戸城は茨城県結城市山川新宿にある平城で、単純に山川城、綾戸城と書く場合がありますが、一般的には山川綾戸城と記載されることが多いようです。
戦国時代には「山川沼」があり、低湿地帯に囲まれていた地形だった模様です。
沼の名残りとして、現在は山川沼排水路が付近の田んぼの真ん中を貫いていることからも、船で鬼怒川に抜けられたようです。

最初の築城は、戦国時代の1565年で、山川氏14代の山川氏重(山川駿河守氏重)が、北2kmほどの場所にあった山川館(常陸・山川城)から移転して、新しい本拠地としました。
古い山川城には代官(城代)が置かれたようです。
ちなみに、山川晴重(やまかわ-はるしげ)は、山川氏重の子で、1566年に生まれています。





その頃、山川氏は、本家である結城城の結城晴朝の傘下となっていましたが、上杉謙信小田原城の北条氏との間で、揺れ動いていました。
最終的には、1574年頃から上杉謙信に従い、北条家とは対立する形となっています。
そのため、北条氏康は、下野・小山城を占拠して足がかりにすると、山川綾戸城と、結城城を攻撃しました。
山川晴重は、結城晴朝と協力して、宇都宮広綱佐竹義重・ 那須資胤の援軍を受けて切り抜いています。

1590年、豊臣秀吉小田原攻めにて、結城晴朝は小田原城に参陣したことから山川晴重も所領安堵となりました。
陸奥で起こった葛西・大崎一揆では、徳川家康より出兵を要請され、軍を率いて結城秀康に従い陸奥に赴いています。
山川氏にとって、初めての遠方への遠征となったようです。
1593年、山川晴重が死去すると、子の山川朝貞が跡を継ぎました。
独立勢力とも言えた山川氏は、完全に、結城秀康の家臣と言う立場となって行きます。

山川綾戸城

1600年、関ヶ原の戦いのあと、結城秀康は越前・福井城に加増転封されます。
この時、山川朝貞も従い、先祖代々400年の地を離れて、越前に移りました。
山川讃岐守朝貞は、吉田郡花谷(永平寺の北側)にて1万7000石を与えられ、結城家(松平家)の重臣に列しています。

その後、常陸の山川領は、一時、徳川家の直轄地になりましたが、慶長9年(1604年)に松平定勝の3男・松平定綱が、山川5000石となって、山川綾戸城に陣屋を構えたようです。

慶長14年(1609年)に1万石に加増されると、合計1万5000石で大名に列したことから「下総・山川藩」が成立しました。

松平定綱は元和2年(1616年)に、常陸・下妻藩に移動すると、徳川秀忠の側近である水野忠元が山川綾戸城に3万石で入っています。
水野氏は、のち駿河・田中藩(駿河・田中城)に移り、天領となりましたが、近くには、天保の改革で有名な水野忠邦までの墓所が、のち水野家(唐津藩・浜松藩)によって造られています。





山川綾戸城の遺構は、田畑となり、ほぼ消失しており、本丸もどこにあったのが、現地では不明でした。
写真のように、三の丸の土塁、堀の一部を確認することができ、案内板があります。

山川館(常陸・山川城) 結城四天王・山川氏の本拠地
駒城(駒館) 藤原実寛
下館城 水谷正村と水谷勝俊 不敗伝説を作った水谷氏
結城秀康とは 文武両道の福井城主も若すぎる死を遂げる
城跡巡りにも便利な関東オリジナル地図





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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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