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三河・長沢城 ~松平氏と関口氏の奇妙な縁~


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三河・長沢城(ながさわ-じょう)は愛知県豊川市にある平山城で、別名を桜ヶ城とも呼ばれています。

長沢城の歴史

室町時代初期、長沢一帯は今川氏の一族である関口満興が岩略寺城(がんりゃくじ-じょう)を拠点として支配しており、長沢城は文安年間(1444年~1449年)頃に、その支城として築かれたお城で、関口満興の弟である長沢直幸が城主として入城しました。
本拠地の岩略寺城は東海道から直線距離で2km程離れているため、東海道に隣接した地に城を築き、街道を監視しながら通常はこの長沢城で居住していたとも考えられます。

長禄2年(1458年)岩津城松平信光(まつだいら-のぶみつ)は岩略寺城を夜襲して奪い取り、子の松平親則(まつだいら-ちかのり)を長沢の地に配して長沢松平家を興させました。


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その後、世代を重ねるごとに城郭は整備拡張され、五代目の松平一忠の頃には東西約200m、南北約250mで三重の堀と土塁に囲まれた堅固な城構えとなったとされます。

交通アクセスと登城まで

交通アクセスは、公共交通機関を利用する場合、名鉄名古屋本線の名電長沢駅から徒歩5分、自家用車の場合は駐車場がありませんので、緊急車両の通過や近隣の皆様のご迷惑にならないような場所に車を停め、随時移動しての見学となります。

長沢城の遺構は国道1号線や名鉄名古屋本線、東名高速道路などで南北に寸断されています。
国道1号線の北側には井戸跡と城址碑が2カ所、南側の旧東海道沿いにある長沢小学校の壁には看板が設置されており、看板から100m程東には一里塚の碑が立てられています。
国道1号線には中央分離帯が存在するため、南北の行き来は長沢小学校の東側の路地を北に向かい、1号線の下を通る通路を利用する事になりますが、道幅が狭いため注意が必要で、小学校の登下校の時間帯などは車での訪問を避けるか、名電長沢駅前の信号交差点まで戻って国道1号線を横断する形になります。
まずは国道1号線の北側から訪問します。
長沢駅の改札を出て、左に進むと国道1号線にある長沢の信号交差点に出ますが、その手前に左(東方向)に進む道がありますので、その道を進んで行くと正面に見える高台の住宅地一帯が長沢城跡になります。
長沢城遠景

住宅地の手前を右に曲がりながら道なりに進むと、国道1号線に出ますが、その左手前に井戸跡と城址碑があります。
城址碑
城址碑脇の側道を上ると住宅地に入りますが、2本目の路地を入ったすぐ左側の民家の庭先に、もう1つ城址碑があります。
※こちらは私有地に建てられた城址碑ですので、敷地内への進入は避けてください。

2つ目の城址碑あたりから道は下り坂になりますが、100m程降りると開けた場所に出ます。
右側を見ると国道1号線の下を通る道が見え、その先の右側には長沢小学校があります。
学校沿いを真っすぐ進んだ先は旧東海道ですが、学校の角には三河・長沢城の紹介看板があります。
長沢城看板

東海道を左(東)に100m程進むと一里塚があり、西に進んだ先にある公民館と保育園の裏山には、松平親則が長沢城築城当時、城内に建てた御堂と言われ、古城観音として現代に残されています。
※夏場は観音堂に至る階段全体が雑草で覆われているため、観音堂の訪問は冬から春先にかけてがお勧めです。

その後の歴史

岩略寺城主の関口満興から数えて5代後に徳川家康の正妻になる築山殿が産まれています。
政略結婚とは言え、駿河遠江を支配する今川氏と西三河一帯を支配圏に持つ松平氏との、いわば中間地点を古来よりの拠点としており、今川氏の一族でもある関口氏の娘との婚姻は、徳川家康にとって今川一門として身を立てるきっかけにもなりますが、築山殿にとって松平氏は父祖伝来の地から一旦は追い出された相手であり、家康の離反によって父の関口親永は切腹させられ、母も自害しています。
しかも息子である松平信康の嫁は、伯父の今川義元を討った織田信長の娘ですから、周りは宿敵ばかりの環境に近い状態。
そのような心理状態も内通疑惑に影響し、松平信康と自分自身が処断される事になったのかもしれません。


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長沢松平家の六代目にあたる松平親廣(まつだいら-ちかひろ)は七代目松平政忠(まつだいら-まさただ)と共に徳川家康(この時点では松平元康を名乗っていますが、ここでは家康に統一させて頂きます)に仕え、桶狭間の戦いに従軍しますが、織田軍に急襲され松平政忠は討死を遂げます。政忠の息子である松平康忠(まつだいら-やすただ)が八代目として跡を継ぎ、祖父の松平親廣や叔父の松平信重、松平近清らが後見を務め、元服後は母の碓井姫が再嫁した酒井忠次に属して、姉川の戦いに参加。

天正3年(1575年)に行われた長篠の戦でも酒井忠次と共に別動隊として鳶の巣砦を攻略。
長篠城の開放に尽力した後、徳川家康の長男である松平信康の補佐をしますが、信康が自刃した際に一旦は蟄居。
その後も家康に仕え、本能寺の変後は徳川家康の伊賀越えに同行し小牧長久手の戦いにも参戦。
徳川十六将の一人として数えられるまでになりました。

九代目松平康直は天正17年(1589年)の小田原攻めに従軍。
北条氏が滅亡すると徳川家康の関東移封に伴い、長沢松平家は深谷一万石の大名となり、三河・長沢城は廃城となったと言われています。
松平康直は24歳の若さで嗣子を残さずに病死したため、徳川家康は誕生したばかりの七男松千代に長沢松平家を継がせますが、その松千代も6歳で早世したため、六男の松平忠輝を後継とします。
松平忠輝は佐倉五万石、川中島十二万石と加増を重ね、越後高田七十五万石の大々名となりますが、大阪夏の陣の不行跡で改易となり、長沢松平家は一旦途絶える事となります。
享保4年(1719年)九代目の松平康直の甥にあたる松平昌興が幕府に訴え、長沢松平家の存続を認めさせて長沢の地に再び戻る事となり、幕末期には浪士組扱い等に名を残しています。


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長沢城跡(井戸・城址碑跡)
愛知県豊川市長沢町古城

長沢小学校(看板)
愛知県豊川市長沢町午新88

観音堂
愛知県豊川市長沢町沢尻

(寄稿)だい

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だい

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愛知県在住の会社員です。
休日には県内の城巡りをしており、愛知県内にある1,300以上ある城館を全て制覇する事が当面の目標。
モットーは「どんなマイナーな土地にも歴史はある!」
愛知県出身の有名武将は数多く存在しますが、それ以上にマイナーな武将や城も多数存在しています。
そんなマイナーな武将やお城を歴史好きの皆様にご紹介できるような記事を書いて行きたいと思います。

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