徳山館は北海道松前郡松前町字神明にある標高13mの丘城です。
一般的には蝦夷・徳山館(とくやまやかた)と表記すると分かりやすいと思いますが、松前大館、単に「大舘」とも書く、北海道・道南十二館のひとつです。
室町時代に蝦夷管領の安東氏が築いた当初は大館と言われました。
これは、大舘に対して「小館」と言う二つの郭で構成されているため、分類上、主郭が大館と呼ばれたようです。
ただし、小館の郭も、決して小さくはないらしいです。
下国山城守定季(安東定季)が城主として見られます。
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1456年に、再起を図る安東政季(安東師季)が、分家で秋田郡の領主・秋田城介安東尭季(安東惟季)の招きに応じて、秋田小鹿島(秋田県男鹿市)(出羽・染川城)へ移動する際に、茂別館には安東家政(下国守護)、大館には安東定季(松前守護)、花沢館には蠣崎季繁(上国守護)守護として任命して蝦夷に残したとされます。
アイヌが蜂起したコシャマインの戦いの際には、安東義季の弟とも言われる安東定季(あんどう-さだすえ)と、相原政胤は大舘の守将でした。
1457年5月に大舘は陥落して、2人はアイヌの捕虜となりますが、翌月には武田信広が救出して、大舘をすぐに回復しており、その後は下国氏が守っています。
徳山館があった麓の屋敷跡?には、現在、徳山大神宮が建てられています。
ただ、安東定季(下国定季)の子・下国恒季は粗暴で行いが悪く、理由もなく民を殺害するなどしたようです。
そのため、1496年5月、蠣崎光広ら配下の蝦夷島館主らは、宗家の檜山屋形(檜山城主)・安東忠季に訴えます。
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1496年11月、安東忠季は、姉の子である蠣崎光広に命じて軍勢を大舘に派遣したため、下国恒季(安東恒季)は自害しました。
下記の奥にある丘が大舘の本郭がある山です。
写真だと森にしか見えず、高さがあるようにはわかりませんが・・。
その後の大舘は、相原季胤(相原彦三郎季胤)が預かることになり、村上政儀(村上三河守政儀)が補佐しています。
この相原氏は、横山党の末柄とも考えられます。
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1512年、アイヌが早朝に大舘を攻撃して、相原季胤と村上政儀が討死しました。
そのアイヌを鎮圧した蠣崎光広(蠣崎光廣)は、1514年に松前大館を手に入れると、上之国の勝山城から、小舟180隻を率いて本拠を松前に移し、居館を改修して名称を徳山館と改めています。
ちなみに、蝦夷・勝山城には次男の蠣崎高広が入っています。
なお、アイヌとの戦いは続いており、特に1528年には徳山館が攻撃され、蠣崎義広は自ら槍を振るって応戦したと言います。
このように、蝦夷・徳山館(大舘)は大規模な山城でしたが、1589年、大館の郭内主要部が焼失し、松前の方が海に近く交易に便利だったため、本拠を福山館に移しました。
現在の大舘も良い状態で遺構があるようですが、発掘調査は行われておらず、城址も松前城の整備が優先のようで、謎も多いようです。
徳山館跡となる徳山大神宮の境内には「ブローウニンの幽閉地」の石碑もありました。
このブローウニンと言う人物に関してはこちらにて記載させて頂いております。
徳山館(大舘)への行き方・アクセスですが、当方のオリジナルGoogleマップにてご確認願えますと幸いです。
松前城から歩くと約20分ほどかかります。
蝦夷地探訪シリーズ
・安東政季までの安東氏盛隆~安藤康季と安藤義季
・松前城の景観と松前慶広とは~福山館の戦国期と幕末期
・松前藩屋敷のみどころと駐車場の場所
・花沢館と蝦夷を統治した蠣崎季繁とは
・茂別館と安東家政とは 道南十二館のひとつ
・蠣崎季広とは
・蝦夷の志苔館と小林良景 コシャマインの戦い
・松前ブローウニンの幽閉地と高田屋嘉兵衛~ゴローニン事件
・函館の地名の由来にもなった宇須岸館と河野政通~函館南部陣屋も
・出羽・染川城 安東惟季 想像掻き立てられる海辺の城
・檜山城 広大な檜山安東氏城館跡 紅葉の様子も
・蝦夷地の史跡巡り用「北海道観光オリジナルGoogleマップ」
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