埼玉県

武蔵・別府城(東別府館) 別府顕清

武蔵・別府城




武蔵・別府城(べっぷ-じょう)は、埼玉県熊谷市東別府(標高30m)にある平城です。
別名は別府氏城、別府氏館と言い、別途、西別府城(西別府館)があることから、東別府館として区分されることもあります。
水堀で囲まれた東別府神社の境内が、武蔵・別府城跡になります。
別府城は、信濃・別府城もよく知られ、鹿児島の加世田城も別名は別府城となりますので、調べる際には注意が必要です。

武蔵・別府城の最初の築城としては平安時代に別府行隆(別府二郎行隆)が築いたとされます。
別府行隆は、成田氏館主・成田助高(成田大夫)の次男で、大里郡別府に分家して、武蔵・別府氏の祖となりました。
保元の乱では源義朝に従って、武功を挙げています。





なお、別府行隆の嫡男・別府能幸(別府太郎能幸)は東別府氏となり、次男・別府行助(別府二郎行助)は、西別府館を築いて西別府氏となりました。
東別府氏は成田氏とは血縁こそ途中で切れましたが、このように、成田氏の重臣として戦国時代まで続きます。

別府城の広さは、東西118m、南北163mのほぼ四角です。
しかし、東西2か所に分かれており、恐らくは東側を後から拡張したのでしょう。
西側跡には、現在も水堀(空堀)と土塁が残る館跡の雰囲気があり、東別府神社が祀られています。
東側跡には香林寺があり、そこを東別府館跡とする場合もあるようですが、すぐ脇ですので、個人的には、わざわざ分けずに、まとめて別府館で良いと感じます。

武蔵・別府城

南北朝時代に別府氏は、、浅羽太郎左衛門尉、奈良五郎左右衛門尉、毛呂八郎、成田四郎次郎などと一緒に、北朝方の高師冬勢に味方しました。
そのため、足利尊氏より別府郷・深谷市東方・越生郷などの地頭職を得ています。
その後、成田氏ともども関東管領・山内上杉家に従いました。
1478年頃、成田顕秦は本拠を武蔵・忍城に移しても、別府氏はそのまま熊谷にいたようです。





なお、別府城跡にある香林寺は、1187年に別府小太郎重が父・別府太郎義重の菩提を弔うために建立したと伝わります。
その後、戦国時代の天文年間(1532年~1555年)にも別府長清が堂宇を増築しました。

武蔵・別府城

1590年、豊臣秀吉小田原攻めの際には、別府長清(べっぷ-ながきよ)とその子・別府顕清(べっぷ-あききよ)の動向が伺えます。
東別府氏11代の別府長清は、成田氏長に従って、次男・別府清勝とともに小田原城にて籠城しました。
嫡男の別府顕清は、武蔵・忍城で成田長親の籠城に加わり、忍城下忍口の守備を本庄越前守と共に任されています。





映画「のぼうの城」では、酒巻靱負が下忍口を守っていましたが、石田三成の堤防を切ったのは、下忍口から出陣した、遊泳が得意な者十数名ともされています。
なお、下忍口を前に陣を張ったのは豊臣勢は赤座直保・水谷蟠龍斎で、水攻めが失敗したあと、石田三成が単独で攻撃したともあります。
このとき、別府三郎左衛門顕清、丹生式部丞、朝田内蔵助、小金井善忠、正木太郎、下田修理、野澤金十郎、伊坂宮内、安相助左衛門、羽太源左衛門、海老瀬宮内、早川傅右衛門、菅沼勘大夫、尻高左京らが忍城から討って出て対応しましたが、別府顕清は討死したともされています。20歳だったとも。
その劣勢を見て、遊軍であった酒巻靱負允が、䛾佐々野満十郎、加藤五郎兵衛、吉野織部、中村主水、鈴木弾正、大木四郎右衛門、林野市右衛門、中村藤十郎、下官伊兵衛、小山田仁右衛門などを援軍として繰り出し、勝利したともあります。

成田氏長が領地没収になったのと同じく、別府長清も別府城を失いましたが、自刃したもともされます。





武蔵・別府城(東別府館)への交通アクセス・行き方ですが、JR高崎線・籠原駅から国際十王バス「熊谷駅行き」に乗車して、玉井四丁目バス停下車し、徒歩約15分となります。
籠原駅から歩くと、2200m、約30分の距離となります。
駐車場ですが、東別府神社の境内(別府城跡の中)に、クルマでそのまま入れて、空き地に止められました。

次は、中条氏館へ向かいました。

忍城~豊臣の大軍にも勝利した関東七名城 高源寺と丸墓山古墳・石田堤も(成田家探訪)





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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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