武蔵・本庄城(ほんじょう-じょう)は、埼玉県本庄市にある平城です。
平安時代から鎌倉時代にかけて武蔵に勢力を張った児玉党の本庄氏が支配していた地ですが、鎌倉時代には栗崎館が本拠だったようです。
本庄氏は、南北朝時代に新田義貞に味方して弱体化し、五十子の戦いの頃には本庄信明(本庄宮内少輔信明)が東本庄館を築いて、関東管領・山内上杉家に従っていました。
本庄為明、本庄将明、本庄実明と続き、本庄実忠(ほんじょう-さだたね)のとき、1546年、河越夜戦にて手傷を負いながらも奮戦したため、上杉憲政から西本庄を加増されました。
しかし、上杉家は敗戦続きで、1551年には上野・平井城を放棄して越後に逃れます。
そのため、本庄実忠は、鉢形城も抑えた北条氏康に鞍替えした模様です。
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そして、より防御に優れた地に新城を築くことになり、1556年、武蔵・本庄城が築城されました。
そして、本拠地を東本庄館から移しており、昔、新田氏の家臣だった末裔と言われる人々などが移住した模様です。
その後、北関東には、度々、春日山城の上杉謙信が関東へ侵攻しますが、1561年には成田氏など周辺の豪族同様に上杉勢に加わり、小田原城を包囲しています。
1567年、北条氏康が反撃を開始すると、本庄実忠は上杉勢が籠城した厩橋城へ入ったため、武蔵・本庄城は北条勢の攻撃にて落城しました。
その後、再び北条氏に降伏し、1580年に本庄実忠は85歳で亡くなりました。
その後、嫡男の本庄近朝(ほんじょう-ちかとも)が家督を継ぎましたが、武田勝頼の攻撃を受けています。
また、1582年には、その武田勝頼も織田勢の甲斐攻めで自刃し、滝川一益が厩橋城に入り、本庄氏は服属となりました。
ところが、明智光秀による本能寺の変で、織田信長が倒れると、鉢形城の北条氏邦は金窪城へ兵を進めています。
そして、小田原城から出陣した北条氏直は、本庄城に本営を置いた模様です。
こうして、金窪原合戦(神流川の戦い)となりましたが、滝川一益に従っていた本庄氏は敗れて、再び北条氏に臣従しました。
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1590年、豊臣秀吉が小田原攻めを開始すると、本庄近朝(本庄隼人正近朝)らは小田原城の籠城に加わったようで、前田利家が本庄城を簡単に攻略したようです。
そして、本庄近朝は北条家と運命を共にし、滅亡しました。
その後、江戸城に徳川家康が入り関東の領主になると、伊那の松尾城主だった小笠原信嶺が1万石で、武蔵・本庄城に入っています。
そして、本庄城は改修されたようで、中山道の宿場としても栄えるようになりました。
家督を継いだ小笠原信之が本庄藩の初代藩主となりましたが、1612年に下総・古河藩2万石となって移り、本庄藩は廃藩となって、本庄城も破壊されたようです。
ただし、残された城下町は、中山道の宿場町として大きく利用され、武家の領地から商人の町として発展し、今日に至りました。
本庄市役所の西側にある城山八幡宮付近が、本庄城の本丸だったようです。
なお、本庄実忠が築いた場所は、東南の段丘上である可能性があるようです。
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武蔵・本庄城への交通アクセス・行き方ですが、JR高崎線の本庄駅から歩くと約900m、徒歩15分といったところです。
クルマの場合、少し道が狭いですが、城山稲荷神社の参道入口になる鳥居の左側に、3台ほどの駐車スペースがありました。
ちなみに、このあとは、深谷城へ向かいました。
・関東管領の上杉憲政とは 平井城と平井金山城
・深谷城 深谷上杉氏の本拠 上杉憲盛・上杉氏憲
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