群馬県

高津戸城とは 高津戸渓谷を見下ろす大間々の山城

高津戸城




高津戸城(たかつどじょう)は、群馬県みどり市高津戸にある山城です。
風光明媚な景勝地として知られる高津戸渓谷(渡良瀬川)の崖上にある要害山の山頂にあるため、別名は上野・要害山城とも言います。
標高は270m、比高は100mと堅固です。
最初の築城としては、平安時代の1088年に山田七郎平吉之が築いたとされています。
まぁ、山城ですので、詰の城と言う事で、平時は大間々の街中に屋敷があったものと推測致します。

室町時代初期1351年、第10代、山田筑後守則之(山田則之・山田範行)のとき、桐生国綱の家臣である谷直綱(やつ-なおつな、谷四郎直綱)の攻撃を受けて山田氏は滅びました。





その後、1371年、里見義連の3男・里美氏連が、桧杓山城主・桐生国綱の娘を正室に迎えて、仁田山八郷(高津戸、須永、東、西小倉、上、中、下仁田山、名久木)を任されて、高津戸城とは別の仁田山城に入り、仁田山氏連と称しました。

戦国時代になり、安房里見氏の一族である里見勝広(里美勝弘)が内紛から逃れて、桐生助綱の許可を得て、里見宗連(仁田山宗連)のもとに身を寄せ、赤萩城を与えられています。
1570年に桐生助綱が死去して、家督を継いだ桐生親綱は横暴の極みであり、里見勝広(里美勝弘)が注意するも恨まれて自害させられたともあります。
別の説では、里見実堯(里美勝広)は、里見勝政と里美勝安を上杉謙信に人質に出して、自らは桐生氏の客分になったとされます。
しかし、これが謀反だと言われ、桐生親綱の命にて1570年3月20日、詰め腹を切ったともされます。
柄杓山城は1573年に由良成繁が攻撃し、桐生親綱は佐野城に逃走して桐生氏は滅びました。

高津戸城

1574年9月、関東に入った越後の上杉謙信は、従わない仁田山里見氏を攻め、里見家連(仁田山宗連)は討死しています。
高津戸城の姫が味方に裏切られ、無念のまま渡良瀬川に落ち命を絶ったと言う話もあるようです。
里見家連(仁田山宗連)の子である里見宗義と里見義宗は碓氷郡里見郷に逃れて、榛名里見氏となったようです。

高津戸城

また、越後にいた里美勝広の子である里見勝政と里美勝安は、上杉家の支援を受けて高津戸城に入り仇討の機会を狙いました。
そして、1577年5月2日に、用命砦の石原石見を襲撃しましたが、由良氏に従っていた石原石見が由良国繁に報告したため、反撃を受けて討死にしました。
この兄弟の墓、山田氏の墓所は、要害山のふもとにある阿弥陀堂となります。
ただし、この兄弟の逸話は、後世に創作された物語の可能性が高いようです。

高津戸城

このように、高津戸城は、由良国繁の属城となり、1584年に、由良国繁と小田原城主の北条氏直が敵対すると、上野・深沢城の阿久沢氏は北条氏の命によって五覧田城を攻略し由良氏を撃退しました。
そのため、高津戸城も、北条家に従っていた阿久沢氏が任されたようです。
その後、1590年、豊臣秀吉小田原攻めまで、北条勢の城として使われたと考えてよいでしょう。





交通アクセス・行き方ですが、わたらせ渓谷鉄道の大間々駅かせ徒歩約15分で登城口となり、高津戸公園ハイキングコースとして整備されています。
今回、事前に登れる道があることがあることを知らず、登りませんでしたが、裏側からクルマで山頂下の三の丸まで登ることが出来るようです。
要害神社の無料駐車場(10台)が利用できます。

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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