奈良県

龍田城 片桐勝元が江戸幕府より加増を受けた大和の竜田城

龍田城




龍田城(たつた-じょう)は、法隆寺からもほど近い奈良県生駒郡斑鳩町龍田南にある平城です。
最初の築城は不明ですが、室町時代には、興福寺・一乗院の衆徒である龍田氏の本拠で、天正年間まで使われたと言います。
奈良の興福寺(こうふくじ)は、藤原鎌足ら藤原氏の氏寺(祭祀儀礼の場)です。
そのため、平安時代には大和国にある荘園のほとんどを領し、事実上の大和の国主になっていました。
そして、一乗院と大乗院が門跡寺院として栄え、戦国時代に入っても、大和の武士や僧兵を勢力下に納めており、室町幕府も大和にだけは守護や守護大名を置くことがでずにいました。
その大和の2大権力である一乗院と大乗院に属した国人を「衆徒」と「国民」と更に分けて呼びました。
本来であれば衆徒(しゅうと)は、寺の運営にあたる僧侶と言う事になりますが、大和(奈良)だけはちょっと意味合いが違ってきます。
興福寺の運営にあたる有力国人らを「衆徒」とし、春日社の神人(国人)らを「国民」として呼ぶことが多いようです。
例えば重要なポストに国民はなれませんでしたので、簡単な話、衆徒のほうが身分が高いと言えます。
戦国時代に入ると興福寺の勢力が衰退し、大和四家と言われる衆徒だった筒井氏・越智氏・十市氏・箸尾氏が頭角を現しました。





その後、松永久秀が、信貴山城に入った頃には、龍田城も攻略されたようです。

関ヶ原の戦いのあと、大坂城の豊臣秀頼を支えていた、片桐且元は、江戸幕府を開いた徳川家康との交渉を主に担当します。
その功績を認められて、徳川家から大和国竜田の1万8000石が加増されて、茨木城とあわせて2万8000石となりました。
徳川家からの加増ですので、豊臣家における片桐且元の立場を狂わせようと試みた可能性は高いでしょう。

こうして、竜田藩(たつたはん)が成立し、大和・龍田城は「龍田陣屋」として整備されたようです。

1614年、大坂の陣が始まる前、片桐且元は、淀殿大野治長ら豊臣家から内通を疑われるようになり、大坂城から退去し茨木城に入りました。
その後、片桐且元は徳川家康に臣従し、大坂の陣でも大阪城を砲撃するなどしています。
そのため、1615年の大阪夏の陣の際には、豊臣勢によって、竜田城の周辺は放火もされました。
加増を受けて4万石になった片桐家ですが、豊臣家が滅亡してから、20日後に片桐且元は死去します。
自害ともされています。

その後、竜田藩の片桐家は1万石に減封になるものの存続していましたが、4代藩主・片桐為次が嫡子なく15歳で死去すると廃藩になりました。
しかし、徳川幕府は、片桐且元の功績に考慮して、片桐為次の弟・片桐貞隆を、大和・小泉城1万石とし、大和・小泉藩が成立します。
そして、片桐家は明治まで大名として続きました。

龍田城跡には、東町池・平太池といった内堀の痕跡は認められますが、遺構の多くは住宅街となってしまっています。





龍田城への交通アクセス・行き方ですが、JR王寺駅から徒歩約25分となります。
法隆寺近くから、レンタサイクルを借りて行くのも良いでしょう。
なお、車の場合、駐車場はありませんし、道も曲がるところなどが狭いです。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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