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八代城(続日本100名城) 八代の古麓城 麦島城 細川忠興が隠居した八代城と松井興長

八代城(続日本100名城)

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八代城(続日本100名城)・八代古麓城・麦島城は熊本県八代市にあった城跡ですが、時代とともに変遷を経て江戸時代には八代城となりました。
その八代の城跡である国指定史跡「八代城跡群」(やつしろしろあとぐん)」となる古麓城、麦島城、そして、続日本100名城にもなった八代城を順番にご紹介したいと存じます。
まずは古麓城です。

八代・古麓城とは

古麓城(ふるふもとじょう)は八代では古い時代からの城郭(城跡)で、山城になっています。

古麓城を構成する城は7城あり、勝尾城、新城、丸山城、鞍掛城、鷹峯城、飯盛城、八丁嶽城の7箇所を総じて古麓城と呼びます。

古麓城

1334年の建武の新政にて功績があった名和長年の子・名和義高が肥後国八代荘の地頭に任命され、名和一族の内河義真が建武2年(1335年)に地頭代として八代に赴任しました。
この時に、球磨川河口を南に望む山麓に城を築いたのが古麓城の始まりとなります。

当時は、地頭代行の内河氏の名前から「内河の城」と呼ばれたようです。

足利尊氏が勢力を伸ばすと、名和長年やその嫡男・名和義高をはじめ、名和一族の多くが討死にし、名和家は没落します。
しかし、名和顕興が家督を継ぐと、菊池武光を頼って肥後に下向しました。

名和顕興は最初、豊福城に入りますが、名和家が地頭職であった八代に土着して、八丁嶽城を築くと古麓城の拠点としました。
のち、良成親王を補佐して菊池一族らと共に南朝側の中核として戦い、二見城には村上興善、田浦城には進実春)、佐敷城に上神重光)、津奈木城と水俣城にも一族・家臣を入れて八代支配を強固なものにしました。

1381年、北朝側が菊池氏の本拠地・隈府城を落とすと、後征西将軍宮・良成親王と菊池武朝は名和顕興を頼って八代に逃れて、八代が南朝側の最後の拠点となっています。

戦国時代には進出を目論む人吉城の相良氏が、度々、八代を攻撃しており、1503年、相良長毎が菊池能運と阿蘇惟長の援軍を得て、古麓城を長期包囲すると、1504年2月、名和顕忠は古麓城を明け渡して八代から退去し、木原城、そして宇土城へと逃れくした。
相良長毎の子・相良義滋(相良長唯)は、城の拡張と城下町の整備を行っており、古麓城を居城しています。

こうして、八代は相良氏の領地となりますが、やがて薩摩の島津義久が北上開始し、相良義陽は島津家に人質を出して臣従し、古麓城は島津家の支配下と変わりました。

豊臣秀吉の九州攻めが始まると、敗走する島津勢の島津征久、新納忠元、伊集院忠棟らは古麓城に籠城するも、大軍に包囲されて夜陰に紛れて退却しています。
そして、豊臣秀吉が古麓城に入って、その後、川内まで進出しましたところで、島津家は降伏しました。

その後、肥後は佐々成政に与えられると隈本城を本拠とし、古麓城には城代が派遣されています。

肥後国人一揆の際には福島正則が古麓城に入って守備を固めました。
その後、肥後の南半分が小西行長に与えられると、小西行長は宇土城を本拠とし、小西家の三家老の首席格・小西行重(小西美作守行重)に八代を任せると、1588年頃より水利のよい球磨川の三角州に「麦島城」築かせています。

小西行重(こにし-ゆきしげ)は、もとの名を木戸作右衛門と言い、手柄を立てて小西姓を与えられていました。

麦島城

麦島城(むぎしまじょう)は総石垣造りの輪郭式平城(水城)で、単なる小西氏の支城と言う事だけではなく、豊臣政権の南蛮貿易の拠点としても機能したようです。
発掘調査の結果、本丸石垣と小天守跡がわかっており、城内に直接、海から船で出入りもできたようです。

麦島城

天正20年(1592年)6月、文禄の役の間隙を縫って梅北一揆が起こり、麦島城は攻められましたが撃退しています。

1600年、関ヶ原の戦いの際、小西行長は石田三成に協力して大阪にいたため、宇土城の留守を守る小西行景と連携し、麦島城代・小西若狭(小西行重とも)は島津忠長や新納忠元、伊集院久治ら薩摩勢に助けを求めています。
そして、来襲した加藤清正の軍と戦い撃退しますが、関ヶ原本戦で西軍が敗北し小西行長が処刑された伝わると、キリスト教徒であった小西若狭(小西行重とも)らは、城兵を救うために麦島城を開城し、妻子・部下500人と薩摩へと移りました。

その後、徳川家康より肥後一国を与えられた加藤家の支城となり、1612年(慶長17年)には、麦島城代として重臣・加藤正方(片岡正方)が入っています。

この加藤正方(かとう-まさかた)は、1580年生まれの加藤可重の次男で、内牧城代でしたが、麦島城に入ると改修し、規模の拡大を図りました。

麦島城

一国一城令となっても、熊本城と八代城(現在の麦島城)の二城体制が特別に許可されています。

しかし、元和5年(1619年)5月1日に、八代の大地震(M6.0)が2回発生し、麦島城(旧八代城)の建物は倒壊。

肥後第2代藩主・加藤忠広は、元和6年(1620年)に江戸幕府の許可を得て、加藤正方に命じて新城を築城開始させます。

八代城の案内図

麦島城の場所に関しては、本文末にあるオリジナルGoogleマップの熊本よりご確認頂けます。

八代城

こうして最終的に築城されたのが八代城(やつしろじょう)で、松江と呼ばれた場所に築城したので松江城とも呼ばれます。
石垣などの多くは、麦島城から転用されたようです。

1632年に藩主・加藤忠広が改易された時でも、まだ八代城は未完成だったようです。
ちなみに、八代城の受取は、臼杵城主・稲葉一通日出城主・木下延俊の2人が担当しました。

そして、細川忠利が肥後・熊本藩54万石(鶴崎2万石を含む)として熊本城に入った際、徳川幕府の命で八代城には細川忠利の父・細川忠興(細川三斎)が入り、北の丸を隠居所としています。

この時、細川忠興(細川三斎)は下記のように述べています。

八代に過ぎたるものが二つある 天守の屋根に乞食の松

下記は八代城の天守台ですが、築城時は本丸の北西隅には、4層5階の大天守(高さ11m)と、2層3階の小天守(高さ9.7m)が渡櫓で連結していたそうです。
ただし、1672年2月、落雷によって焼失し、以後、大天守は再建されていません。

そんな、八代城の本丸は四男・細川立孝の居所としました。
現在、本丸には八代宮(やつしろぐう)があります。

いずれ隠居料9万5千石を細川立孝に継がせて支藩を立てることを望んでいたようですが、細川忠利、細川立孝の2人は、細川忠興よりも早く死去しています。

防御に適した理想的な立地ですが、時代はすでに平和な世の中で、松江城(八代城)は一度も攻撃を受けずに明治を迎えました。

結局、八代城は、細川家の筆頭家老・松井興長が3万石にて入り、細川立孝の子・宮松(細川行孝)は宇土郡・益城郡内に3万石を与えて宇土城主として宇土支藩を成立させています。

以後、幕末を迎えるまで、松江城(八代城)は松井氏の居城となりました。

松井興長

八代城主となった松井興長(まつい-おきなが)の父は松井康之で、細川家の筆頭家老でした。

兄に松井興之がいましたが、文禄・慶長の役にて討死したため、次男の松井興長が家督を継承することになっています。
正室には細川忠興の次女・古保(こほ)を迎えています。

1600年、関ヶ原の戦いの際、父・松井康之は豊後の杵築城に城代・有吉立行と共に守備していましたが、松井興長は主君・細川忠興に従って会津征伐から関ヶ原へ転進しています。
ただし、岐阜城攻めの際に負傷したため、関ヶ原の本戦には参戦しています。

戦後、徳川家康より細川忠興が豊前・豊後39万石となると、父・松井康之は豊後・木付城(杵築城)を任せられて2万5千石となりました。

慶長16年(1611年)に父・松井康之が隠居すると、松井佐渡守興長が家督を継ぎます。
そして、寛永9年(1632年)に細川家が肥後・熊本藩に国替となった際に、松井興長には玉名・合志郡の内に3万石が与えられていました。

寛永14年(1637年)の島原の乱では、藩主・細川忠利の命により、江戸幕府や他藩との交渉を担当した他、原城の戦いでは自ら3700を率いて戦功を挙げています。

こうして、松井家は代々、徳川家直参の身分も持っていたため、豊臣秀吉から安堵されていた山城の知行地は、江戸幕府からも安堵を得ていると言う特殊な家となっていました。
松井家当主の代替わり、そして将軍の代替わりの際には、その都度江戸城に出府して将軍に御目見得しています。

八代城

なお、松井興長は細川忠興の六男である松井寄之を養子に迎えて、松井家を継がせています。

八代城

また、宮本武蔵が細川家に仕官する直前に松井興長に宛てた書状(長岡佐渡守宛書状)が松井家に残っています。
また、宮本武蔵が熊本藩の客将とになった際には、養子の松井寄之が支援し、松井寄之も兵法の弟子となっています。
年老いた宮本武蔵が病床に臥すようになると、松井寄之が身の世話をしたことも、宮本武蔵の養子・宮本伊織との間に交わされた多くの書状から判明しています。
そのため、宮本武蔵の手による水墨画や工芸品などの多くが松井家に伝わり、太平洋戦争でも空襲被害から免れたため、残っているのです。

松井神社(まついじんじゃ)は、松井氏の旧家臣らが1881年(明治14年)に松代城の北の丸跡に建立した神社で、初代・松井康之と2代・松井興長が祭神となっています。

松井神社

この北の丸は、1622年(元和8年)に加藤正方が母・妙慶禅尼の隠居所を設けていた場所で、加藤家改易後は細川忠興(細川三斎)が隠居した屋敷があった場所となります。

松井神社

北ノ丸にも石垣が残っています。

以上、国指定史跡にもなっている八代城でした。

八代城

八代城の観光所要時間ですが、ざっと40分くらいでした。
八代城へのアクセス・行き方ですが、下記のリンクにある当方オリジナルGogoleマップの「熊本」の欄をご参照願えますと幸いです。
駐車場の場所も示させて頂いております。

相良頼房と深水宗方・犬童頼兄~人吉城の相良家物語
甲斐宗運と御船城~阿蘇氏を忠実に守り抜いた生涯不敗の軍師で名将
島津義久とは~耳川の戦いの詳細や富隈城と国分城も
佐々成政~織田家のエリート武将も、最後は悲劇な人生を送った
加藤清正~肥後の虎・勇猛果敢で知られる熊本の戦国大名
細川忠興~文武両道の名将として戦国の世を・・
肥後・内牧城と内牧御茶屋~加藤一族である加藤可重と加藤正方も
松井康之と本能寺の変 細川家重臣
松井康之は丹波水軍の優れた大将だった~細川家の重臣
宮本武蔵の生涯と真実を追って~熊本と霊巌洞と武蔵塚も
当方オリジナルGogoleマップ (熊本や人吉を含む)


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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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