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一乗谷
一乗谷城(いちじょうたにじょう)は、福井県福井市城戸ノ内町に位置する山に挟まれた川沿いの城郭都市で、一乗谷館とも呼ばれ日本100名城に選ばれています。
朝倉氏が暮らした一乗谷館と武家屋敷や商人屋敷を含む「一乗谷」の背後にある一乗城山(標高473m)が一番防御能力のある城と言う事ですが、全体として一乗谷朝倉氏遺跡と呼びます。
その一乗谷朝倉氏遺跡全体が「国の特別史跡」となっており、そのうち4つの日本庭園が一乗谷朝倉氏庭園の名称で「国の特別名勝」と言う事です。
足羽川支流一乗谷川下流沿いにある東西約500m、南北約3kmの谷間が一乗谷と言う事になります。
一乗谷は、左右を比高80m~100mほどの山に挟まれており、土地が低い一乗川が流れる谷の前後に、敵の侵入を防ぐ目的で、一乗谷の南北に上城戸(かみきど)、および下城戸 (しもきど)を設け、一乗谷全域を防御すると言う体制を取っていました。
いわゆる、自然の山も利用した城郭都市と言えるでしょう。
下城戸
下城戸は、敵が一番侵入しやすい、一乗谷の北端の谷幅が最も狭いところにありました。
現在、高さ4m、長さ38mの土塁が残っており、土塁の西側に巨石を組み合わせた通路跡があり、一乗谷の城下町の入口になっています。
一乗谷への玄関口ですので、かなり厳重な構えとなっています。
上城戸
上城戸跡は、上流側(城下町の南端)に位置し、やはり谷幅が狭いところに築かれていて、下城戸跡からの距離は約1.7kmも離れています。
長さ100m、高さ5mの土塁になっおり、外側には堀がありました。
土塁の上からは、一乗谷の奥まで一望できます。
なお、上城戸跡の際まで城下町があったことも判明しています。
上城戸跡の外側には、下城戸の外側同様に、町屋が一帯にあり、美濃から逃れてきた斎藤龍興や、近江・浅井氏などの屋敷もあったようです。
一乗谷の大手道(おおてみち)、旧朝倉街道を西に進んだ、東大味(ひがしおおみ)地区には、当時、朝倉家に仕えていた明智光秀の館とされる館跡があり、細川ガラシャもここで誕生したと見られています。
現在では、明智神社の祠が置かれていますが、明智光秀のページにて写真など記載させて頂いております。
ただ、この明智神社の場所には駐車場がありません。
復元町並
戦国時代に朝倉氏5代103年にわたり越前の国を支配し、栄華を極めた城下町跡として、発掘された場所に、町並みが復元されています。
復元町並のエリアは、有料拝観となりますが、歴史ロマンに浸ることができる一乗谷での観光の目玉です。
塀に囲まれた重臣の屋敷が山際に並んでいます。
主に重臣が住んでいた区画だと考えられているのが、復原街並の場所と言う事になります。
応仁の乱が勃発すると、朝倉氏は混乱に乗じて越前の実力者・甲斐氏に代わって越前守護代に就任しました。
一乗谷は1.7kmの谷間ですが復元されたている町並は約200mとなります。
一乗谷の他エリアは24時間散策可能ですが、復原町並の営業は朝9時~16時30分までの入場となります。
定休日はないですが、年末年始はお休みです。
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一乗城山
一乗城山(いちじょうしろやま)は、一乗谷の東にある山頂で、本丸跡、一の丸跡、二の丸跡、三の丸跡が残ると言います。
ただし、1573年、織田信長の越前侵攻の際にも籠城することはありませんでした。
一乗城山の山頂には「下城戸跡」手前から橋を渡ると、登山道が整備されています。
ただ、片道約1時間30分ほどもありますので、軽登山の装備が必要です。
なお、個人の私有地の部分があり、立入禁止の区画があるとの情報もあります。
また、南側の山腹には、佐々木小次郎が秘剣「燕返し」の修行をしたと伝わる一乗滝があります。
一乗滝に関しては佐々木小次郎のページにて触れていますので、ここでは省略させて頂きます。
一乗谷城の戦い
元亀4年(1573年)4月、武田信玄が駒場で亡くなると、8月になって織田信長は3万の大軍で浅井長政の小谷城を包囲します。
救援要請を受けた朝倉義景は、家中の反対を押し切って、自ら2万の大軍にて余呉に本陣を置きます。
しかし、魚住景固らの重臣は、兵の疲弊を理由に出兵を拒否し、朝倉義景は自ら小谷城がある北の小谷山の山頂に大嶽砦(大嶽城)を築きました。
近江一帯が暴風雨となった時に、織田信長は自ら1000を率いて、浅井家から寝返った浅見道西の案内で、大嶽砦を急襲しました。
更に、丁野山砦が陥落し、朝倉義景は越前への退却を始めます。
これが、織田信長の狙いでした。
佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・木下秀吉・丹羽長秀などに「朝倉は必ず撤退する」と追撃の準備をさせていましたが、実際には織田信長に後れを取り、あとで怒られています。
しかし、退却戦の混乱に織田軍の猛追を受けた朝倉勢は刀根坂に向かい、ここで織田信長本隊の攻撃を受けます。
刀根坂の戦いとなり、北ノ庄城主・朝倉景行、当時17歳の朝倉道景、山崎吉家、斎藤龍興、河合吉統など名だたる有力武将が討ち死に、朝倉義景は手勢のみで一乗谷に戻ります。
そして、朝倉家の重臣で織田家に寝返っていた前波吉継を案内役にして、織田信長は越前に入り、龍門寺城に朝倉攻めの本陣を置きました。
軍勢の立て直しも不可能で、兵力500となった朝倉義景は、朝倉景鏡の勧めで、一乗谷から大野郡に移り平泉寺を頼って再起を図ろうとします。
その間、織田勢は一乗谷に入ると8月18日から20日まで3日3晩にわたりの放火し、城下町を破壊しました。
六坊賢松寺にいた朝倉義景は、8月20日、裏切った朝倉景鏡の兵に囲まれ、自刃しています。享年41。
下記は越前・大野にある朝倉義景の墓所。
朝倉義景の母・高徳院(広徳院)と、子の朝倉愛王丸は朝倉景鏡に生捕りにされ、羽柴秀吉に差し出しています。
高徳院と愛王丸の身柄は越前府中に護送されて丹羽長秀に預けられると、8月26日、今庄の帰(かえる)の里にて、堂もろとも火をかけられて殺害され、朝倉家は断絶しました。
最初に織田勢に寝返った前波長俊は、越前の守護代に任じられて龍門寺城を居城としたため、一乗谷の再建は最小限だったようです。
また、戦後処理として滝川一益・羽柴秀吉・明智光秀の3人が、北の庄城に2~3ヶ月滞在しました。
1575年8月に、織田信長が一向一揆を平定した際に、一時的に一乗谷に在陣したとの記録がありますが、以後、一乗谷は使われることはなかった模様です。
柴田勝家が北の庄城に入ると、一乗谷の商人や西山光照寺、心月寺、安養寺などは、北の庄の城下に引っ越したため、一乗町、一乗魚屋町などの町が形成されました。
日本100名城スタンプの設置場所は、有料エリアの「復原町並」入口(南・北)で、開館は朝9時~17時(入場は16時30分まで)となっています。
最後に朝倉氏館跡の辺りをご紹介させて頂きます。
一乗谷朝倉氏遺跡
国の特別史跡、一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝にもなっている史跡です。
諏訪館
諏訪館跡は朝倉義景の4人目の側室・小少将のために建立したと言われている館です。
館と館の間には通路(道路)があったようで、塀と思われる部分には石垣も用いられていたようです。
下記は建物への入口と思われる個所です。
中の御殿
中の御殿跡は、足利義秋から従二位に叙せられた朝倉義景の母・光徳院の住まいだったと伝わります。
館の背後には朝倉一族の屋敷があったと考えられています。
湯殿跡庭園
朝倉館跡の背後の高いところにある庭園跡です。
国名勝の4つの庭園で、一番古いものだと考えられており、朝倉孝景の時代のものと推測されています。
いまでこそ、岩しか残されていませんが、当時は水がたたえられていたのでしょう。
再現は許可がおりないのでしょうかね?
これだけの遺構が残っているのですから、もったいないところです。
滋賀県にある「旧秀隣寺庭園」と湯殿跡庭園の構造は似ているそうです。
この湯殿跡庭園から、下がっていく階段がありまして、この下が朝倉氏の館跡となります。
朝倉館跡
朝倉館跡は一乗谷の中心部で、山側以外は土塁と堀で囲まれており、一番防御力が高そうです。
内部には17棟の建築物があったことが発掘調査でわかっています。
朝倉館跡庭園(朝倉義景館跡庭園)が山側にあります。
山の上の方から小さな水路が石で作られており、水が注がれていました。
常御殿と言う建物は、東西約21.4メートル、南北約14.2メートルと、一乗谷で一番大きな建物だったようです。
朝倉義景墓
朝倉館跡の場所に、朝倉義景の墓があります。
最初は、村民が1576年(天正4年)に小祠を建てて供養したそうです。
現在の立派な墓塔は、福井藩主・松平光通が1663年(寛文3年)に建立したものとなります。
なお、朝倉義景の墓は、実際に命を落とした越前・大野城の城下町部分である、亥山城からも近いところにもあります。
そちらは、朝倉義景の記事の方で写真も掲載させて頂いております。
唐門
朝倉館跡の正門とも言うべきのが「唐門」です。
ただし、この唐門は、朝倉義景の菩提を弔うためにこの跡地に作られた松雲院の寺門で、江戸時代中期の建造物となります。
瓜割清水
一乗谷の屋敷跡には、井戸跡もたくさん発掘されています。
昔は水が豊かな場所に街を築きましたので、当然、湧き水もあります。
下記は瓜割清水(うりわりしょうず)です。
暑い夏には、天然の冷水を飲んでいたのでしょう。
一年中、水温が10℃くらいだそうでして、あまりにも冷たいため、冷やしていた瓜が二つに割れてしまうので「瓜割清水」と呼ばれています。
朝倉景鏡館跡
朝倉義景の従兄弟で、朝倉勢の大将としても何度か出陣している、一族でも筆頭であった朝倉景鏡の館跡です。
織田勢に敗れて一乗谷に戻った朝倉義景を、最後は裏切って自害に追い込んだ武将です。
一乗谷の中でも堀があった屋敷は、朝倉館とこの景鏡館、そして、美濃から亡命してきた斉藤龍興の舘の3箇所だけが確認されています。
交通アクセス
一乗谷城(一乗谷館跡)への交通アクセス・行き方ですが、JR越美北線(九頭竜線)「一乗谷駅」からだと徒歩約30分となります。
ただし、越美北線(九頭竜線)は1日9本しか運転がないです
JR北陸本線の福井駅から京福バス東郷線で、武家屋敷前バス停下車ですぐですので、こっちの方が便利でしょう。
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一乗谷は見どころも多いので、観光所要時間は、その方の興味の度合い次第だと存じます。
復原町並だけでしたら20分程度ですが、全部見ると数時間、城山も見ますと4時間以上は掛かります。
一乗谷には無料の駐車場がいくつか点在します。
利用に便利な駐車場は当方のオリジナル地図にてピックアップしてありますので、よろしければ、ご訪問の際にご活用頂けますと幸いです。
時間があれば、クルマで30分ほどの越前・大野城や朝倉義景の墓所もセットでどうぞ。
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