福井県

越前・金剛院城(青木氏館跡)

金剛院城

越前・金剛院城(こんごういん-じょう)は、福井県越前市深草2丁目にある平城です。
築城年代は不明ですが、最初の築城は青木俊矩(あおき-としのり)とされています。

この青木俊矩、青木一矩の子、または青木矩貞の子ともされますが、青木一矩の妻は豊臣秀吉の母・大政所の妹であり、豊臣一族と言う事で出世していました。

越前・大野城にて8万石のあと、木村重茲に代わって青木一矩は越前・府中城に10万石となります。
そして、1599年に青木一矩は北ノ庄城にて21万石となりますが、この時、青木俊矩が屋敷を構えたのが、金剛院城と考えられています。
この地にあった金剛院は、1573年に織田信長が進撃した際、焼失して失丹生郡八田村に移転していた模様です。
1583年に青木紀伊守重治が、金剛院に帰依して、少し建物が再建されたともあります。





青木家は1600年の関ケ原の戦いにて石田三成に協力し、金沢城の前田家に備えました。

しかし、西軍が敗れたと知ると前田家に降伏しますが、結果的には徳川家康に許されず、改易(所領没収)となっています。
青木俊矩は子の青木久矩と共に加賀・前田藩預りとなり、青木俊矩は不遇のうちに、1608年5月6日で没しています。

青木俊矩の長男・青木久矩(あおき-ひさのり)は、1614年、大坂の陣となると娘・宮内卿局がいる大阪城に入ります。
そして、木村重成の部隊に加わって武功を立てましたが、1615年、大坂夏の陣で討死しました。
その子孫の流れには、幕末の志士・橋本左内がいます。

金剛院城

弟の青木泰矩が加賀藩士となっており、末弟・青木昌矩が嫡男となって青木家を継いだとようです。
しかし、病弱のため隠棲すると、福井城主の結城秀康から府中新町に屋敷を与えられて「平吹屋」という屋号で、酒の醸造業を始めました。
大正時代に醸造業は廃業していますが、ご子孫は続いています。

金剛院は、慶長15年(1610年)青木氏の館跡に建立されたと記載があり、府中領主・本多富正によってこの地に戻されたようです。
そのため、金剛院城の別名としては青木氏館跡・青木氏居城跡でも良いのではと感じます。
なお、境内の西側に土塁が残っているそうです。

金剛院城跡への行き方・アクセスですが、越前市の城下町は、多分に漏れず道がとても狭いですので、クルマでの訪問時にはご注意願います。
電車の場合、JR北陸本線の武生駅から約1km、徒歩15分といったところです。
当方のオリジナル地図でも正確な場所を示しています。
近くには龍門寺城・越前府中城新善光寺城もありますので、セットでどうぞ。

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この史跡への皆様の評価→
攻略難易度
中級者向け
旧国名
越前
著者コメント
以降はあまり残されていません。

 

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