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福井城(結城氏北ノ庄城)【続日本100名城】今も昔も福井の拠点となる立派な城構え

福井城(結城氏北ノ庄城)

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福井城とは

福井城(ふくいじょう)は、福井県福井市の輪郭式平城で、北ノ庄城とも通称され、続日本100名城にも選ばれています。
現在の福井城・本丸跡には、福井県庁、県会議事堂、県警察本部などがありますが、公園としても整備もされていて、内堀、石垣、天守台などの遺構が残ります。

1600年、関ケ原の戦いの際に、この地を治めた北の庄城主・青木一矩は、石田三成に味方して、大谷吉継ら北陸の諸将と西軍につきます。
この時、青木一矩はすでに病床で出陣が困難であり、東軍に通じた金沢城主・前田利家の備えとして、北ノ庄城を固めたようです。
そして、石田三成が敗走したあと、前田利長が越前に侵攻して鳴鹿川(竹田川)を渡り、北ノ庄に迫りましたが、青木一矩は1600年10月10日(10月6日とも?)に死去しました。
ただし、福井県史では、越前・府中城の堀尾可晴と共に、青木一矩は東軍に与したともあります。


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青木一矩の死のあと2ヶ月ほどは、高遠城主の保科正光が城番して、法興寺の寺規や貢租の収納方法を定めるなど内政に尽力しています。

2万石で、越前府中の金剛院城主になっていた、青木一矩の嫡男とされる青木俊矩は、前田利長に連れられて大津で徳川家康に謝罪しようとしましたが、拝謁は許されませんでした。
そのため、青木家は改易されて失領し、青木俊矩は加賀・前田家に預けられています。

こうして、空席となった北ノ庄城は、徳川家康の次男・結城秀康が越前68万石となって、下総・結城城から入封となりました。
そして、68万石に相応しい城にと、1601年より天下普請による築城が開始されます。

福井城(結城氏北ノ庄城)

この時、北の庄城の城域も大幅に改変が加わり、古い北ノ庄城が、どこにあったのか?、現在、よくわかっていない由縁となっています。

福井城(結城氏北ノ庄城)

全国諸大名の御手伝普請で約6年の歳月をかけ、結城氏・北ノ庄城(福井城)は完成しました。

福井城

2km四方に及んぶ5重の水堀が本丸を囲み、天守は4重5階の立派な物でした。
三層櫓が2基、二層櫓が1基、他にも櫓門(瓦門)と多聞櫓があったと言います。

福井城

福井城の本丸と二の丸の縄張り(設計)は、徳川家康によるものとされています。

福井城

御廊下橋は、本丸と西三の丸を結ぶ屋根付きの珍しい橋となっていますが、復元されています。

福井城・御廊下橋

2代藩主・松平忠直のとき、大坂の陣となります。
このとき、真田丸で活躍した真田幸村を討ち取ったには、の家臣の西尾宗次と言う事になります。
昔の福井城は下記のような感じだったようです。

福井城・御廊下橋

1624年、福井藩の第3代藩主・松平忠昌により、「敗北」の「北」と言う漢字と同じであるのは、マズイだろうと言う事で地名が「北ノ庄」から「福居」に改められます。
そして、のちには「福井」となりました。(諸説あり)

福井城

天守台のそばには「福の井」という井戸があり、この井戸の名前から「福井」の語源となったと言う説もあります。
この井戸には、城外へ逃げるための抜け道があるとの言い伝えがあったため、過去に調査が行われています。

福の井

しかし、天守は1669年に焼失して以降、財政難もあり、再建されることはありませんでした。
ただし、徳川幕府から再建の許可が下りなかったと言う説もあります。

福井城の天守台

足羽山麓にある高照山・瑞源寺は、第5代・第7代藩主とその母親・高照院の墓所となっていますが、本堂と書院が福井城本丸御殿の移築遺構であることが判明しています。
下記は瑞源寺の山門ですが、ここから内部に通じる道が、工事で進入禁止でしたので、見学は遠慮させて頂きました。

瑞源寺

結城氏北ノ庄城(福井城)の結城家は、のちに松平家に改名しており、幕末には家臣・橋本左内や、熊本から招いた儒学者・横井小楠らと一橋慶喜擁立派として活動した、第16代越前福井藩主・松平春嶽(まつだいら-しゅんがく)も有名です。
福井城の隣にある、福井神社の境内に、松平春嶽の銅像もありました。

松平春嶽の銅像

福井城へのアクセス・行き方ですが、JR北陸本線「福井駅」から徒歩約10分となります。
その福井駅前は、百間堀といわれた濠跡となります。

現在の福井城跡と、福井城の天守台は、福井県警察本部のビルの裏側にあります。

福井城・天守台

ただし、見学での敷地進入は許されていますので、気兼ねなく入れます。
城跡に入るのに何か書類を書いたり、許可を求める必要はありません。
警察に捕まるような悪いことをしていなければ、堂々と見学させて頂きましょう。

南側から侵入しますと、右手に結城秀康の銅像もあります。

結城秀康の銅像

福井城の天守台はなかなか大きいです。

福井城の天守台

下記のような配置になっていた模様です。

福井城

天守は7層とも(一説には9層)と壮大で、安土城に匹敵する巨城だったと伝わります。

福井城の天守台

さすが天下普請だけに立派です。

福井城の天守台

堀に面した石垣の内側も、江戸時代の遺構であることがよく分かります。

福井城

行き方

福井城の駐車場は警察と県警に用事がある方だけですので、見学の場合には、近くのコインパーキング利用となります。
小生がレンタカーを止めた駐車場は、当方のオリジナル地図にて場所がわかるようにしてあります。

福井城の見学所要時間ですが、天守台を見て内堀を一周すると30分~50分といったところです。
本丸は北へも西へも南へも抜けられます。
近くにあった柴田勝家北ノ庄城跡とセットでどうぞ。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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