上浜田中世建築遺構群(浜田歴史公園)は、神奈川県海老名市浜田町5-13にある平城(屋敷)跡です。
発掘調査の結果、中国や朝鮮からの舶来品となる陶磁器、国産品の陶磁器などが出土しました。
そして年代測定の結果は、鎌倉時代~室町時代となり、出土品の特徴から武家屋敷跡と推定される、建物跡も見つかりました。
すなわち、武士の屋敷跡・城跡と言う事になるのですが、誰の屋敷があったのか?など、史料や伝承が全く無い状態です。
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そのため、正式な史跡の名称としては、上浜田中世建築遺構群となり、浜田歴史公園として保存されています。
当方では、城サイトと言う事で、便宜上、相模・上浜田館跡(上浜田砦)、相模・大谷館(相模・浜田館)と命名させて頂いております。
浜田歴史公園では、発掘された際の、柱跡などの遺構が分かるように復元されています。
でも、この館主は誰だったのでしょう?
一番気になるのは、渋谷氏です。
渋谷氏は、比較的近いところにある、相模・早川城を拠点としていましたが、早川城を築いた時期や、本拠だったのかは、不透明です。、
鎌倉時代には広大な領地を得ていたようで、東京の渋谷城も、この渋谷氏の発祥であったとする説もありますが、川崎の方から綾瀬の方まで、広大な領地を得ていました。
鎌倉初期には、源頼朝に従って活躍した、渋谷重国が有名です。
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渋谷重国は、源頼朝が挙兵した時こそ、大庭景親の軍勢に加わりましたが、佐々木兄弟と阿野全成を保護し、その後、源頼朝の鎌倉入りに、協力しました。
その渋谷重国の子としては、渋谷光重、渋谷高重、渋谷時国、渋谷重助、渋谷重近といます。
渋谷重国の嫡男・渋谷光重の本拠とは断定できませんが、相模国渋谷庄内の浜田館(浜田歴史公園)が、渋谷氏の中心であった可能性があります。
ただし、渋谷光重は、1180年、源頼朝の挙兵前には、亡くなっていたようで、浜田館が、長年、本拠になっていたのか?は、疑問が残るところです。
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渋谷次郎高重(たかしげ)は、1213年の和田合戦で和田義盛に味方して討死しています。
しかし、渋谷太郎光重(みつしげ)は渋谷庄を維持しており、その子・渋谷定心(じょうしん)らは、1247年の宝治合戦にて三浦家討伐に戦功があり、薩摩に新たな加増を受けました。
そして、舟木重直、早川実重、吉岡重保、大谷重茂、曽司定心、落合重定といった、一族の大半が分家として薩摩に向かいました。
ところが、その後の高座・渋谷氏(本家)の動向は不明であり、没落したものと推測されます。
その渋谷氏の早川城から約2km、車で6分の距離にあるのが、この上浜田中世建築遺構群です。
建物跡としては、少なくとも8棟あったことが判明しており、その配置から武家の特徴が出ていると言います。
当然、渋谷荘にあたり、渋谷氏の菩提寺・長泉寺も近いですので、渋谷氏の屋敷だったと推測されますが、海老名市教育委員会によると、渋谷氏一族の大谷氏の屋敷の可能性があると指摘しています。
となると、上記でも触れました「大谷重茂」の屋敷だったかも知れません。
ただ、この大谷館主・大谷重茂ですが、薩摩に渡った鶴田氏の祖であること以外、何者か、よくわかっていません。
鶴田重茂(鶴田重諸)と書く場合もありますので、この大谷氏は薩摩に移住したようです。
なお、早川城は、その後、小田原城の北条氏によって、大きく改修されていますので、本当に、渋谷氏の本拠であったかどうかは不明です。
渋谷氏の屋敷としては、長後の天満宮が、渋谷氏長後居跡と推定されています。
このように渋谷氏の館跡も、よくわかっていない状態ですので、上浜田中世建築遺構群・浜田歴史公園が、どの渋谷氏の屋敷だったのか、不明なのは当たりまえとも言えます。
また、縄文時代から平安時代にかけての竪穴式住居跡や、古墳も近所にはあることから、今では想像できないような集落として栄えていたようです。
単純に考えれば、初期の段階である渋谷重国の屋敷は、小田急線の高座渋谷駅周辺にあったと考えるのが妥当ですが、駅前で開発もされているため遺構も失われており、確認するすべはありません。
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上浜田中世建築遺構群・浜田歴史公園への交通アクセス・行き方ですが、海老名駅の東口より相鉄バスにて、浜田歴史公園バス停下車となります。
公園ではありますが、そんなに広くはなく、駐車場もありません。
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