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織田信長の簡単解説 人物伝をわかりやすく5分で

織田信長

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織田信長は「おだのぶなが」と言いますが、戦国時代に尾張(名古屋)で生まれた戦国大名です。
そんな織田信長に関して、どのようにして、天下を狙えるまで、有名な武将となったのか?と、最大の敵は何だったのか?を、わかりやすく解説・ご説明したいと存じます。
まず、織田信長自身も優れた武将なのですが、ひとりで、のし上がったと言う訳ではありません。
織田信長の父・織田信秀(おだのぶひで)が、そもそも智勇に優れた武将でした。
そもそも、織田信長の織田家は、織田家の中でも、本家の清洲織田氏(尾張守護代)に仕えた一族にすぎませんでした。


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その本家の織田氏も、尾張守護である斯波義達の家臣と言う立場でしたので、織田信長の織田家は、主家である斯波氏の家臣の分家と言う立場で、決して、地位は高くありませんでした。
しかし、父・織田信秀は、勝幡城から瞬く間に、勢力を拡大し、その権威は主家の織田清洲家や、その主君である尾張守護・斯波氏をも上回る実力をつけました。
そこに、土田御前が産んだ子が、織田信長と言う事になります。
織田信長は次男でして、織田信広と言う兄がいましたが、身分が低い女性(名前不詳)が産んだ子だったため、正室が産んだ織田信長が嫡男になったと言う事になります。

若い頃の織田信長は「大うつけ」と呼ばれるほど、今で言う「ヤンキー」だったようですが、13歳で元服し、14歳で初陣を飾ると、15歳で美濃の稲葉山城主・斎藤道三の娘である帰蝶(濃姫)を正室に迎えました。
しかし、18歳のときとされますが、父・織田信秀が尾張・末森城で死去すると、織田信長は、いきなり苦難に直面しました。

前述したとおり、織田信長の織田家は、名門ではなく、織田家の中でも庶流でしたので、一族はもとより、家臣からも、信用されない節があります。
簡単な話、なめられたとも言えます。
さっそく、鳴海城主の山口教継と山口教吉が、織田家を裏切って尾張領へ侵攻しました。
清洲城の家老である坂井大膳らがによって、尾張・深田城も占領されましたが、織田信長は合戦だけは強く、なんとか踏ん張っています。
斎藤道三の援軍も頼りしつつ、東から接近してきた今川義元にも対しました。
また、叔父・織田信光と謀り、別の一族である織田信友も謀殺して、清洲城を手に入れ、なんだかんだ言って、織田信長は尾張統一を果たしました。
戦略的な部分が優れている証拠ですね。

ところが、23歳のとき、頼りにしていた斉藤道三が、子の斎藤義龍に敗れて自刃します。
織田信長は救援に向かいましたが、間に合いませんでした。
そして、家臣らの謀反が相次ぎます。


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林通勝や柴田勝家が、織田信長の弟・織田信行を当主にと謀反を起こしました。
しかし、強い信長ですので、鎮圧すると、織田信行と柴田勝家を許すと言う寛大な面も見せています。
ところが、翌年には、再び弟・織田信行が謀反を画策しましたが、このときは、柴田勝家が織田信長に通報しました。
そのため、織田信長は病気になったと、弟・織田信行を清洲城に呼び寄せると、殺害しています。

以後、家臣らの結束は固まり、26歳(1559年)には上洛を果たして、室町幕府の将軍・足利義輝にも謁見しています。
しかし、1560年こ、の織田家の台頭を嫌った、今川義元は3万とも言われる大軍にて尾張に侵攻しました。
織田信長(27歳)の軍勢は、全部かき集めても5000ですので、大ピンチと言えます。
ところが、桶狭間の戦いにて、今川義元を討ち取ると言う、大勝利を収め、全国の武将に織田信長の名を知らしめる結果となりました。

その後、織田家は勢力を拡大して行きますが、その反面、上杉謙信武田信玄にはだいぶ警戒もしており、貢物を贈ったり、縁組の話を整えるなど歩み寄りも行いました。
ただし、庶兄の織田信広が、斎藤義龍と組んで謀反を画策するなど、家臣らの寝返りには苦慮することが続きました。

明智光秀を家臣に加え、1568年には、足利義昭を美濃・立政寺に迎えて奉じると、京都に上洛を果たし、足利義昭の幕府再興を手助けしています。
また、ルイス・フロイスにキリスト教の布教を許可するなど、寛容な面も見せています。

一向一揆の抵抗を受けていた、伊勢も手に入れましたが、越前の朝倉攻めの際に、妹・お市の方を嫁がせて、同盟を結んでいた浅井長政が裏切ります。
背後を突かれる結果となり、最大のピンチとなりました。
越前・金ヶ崎城から金ヶ崎の退き口と呼ばれる、撤退を行い、京都へ退きましたが、織田信長の供回りは10名ほどまで減っていたと言います。
しかし、すぐに体制を立て直すと、姉川の戦いで、朝倉・浅井勢を破りました。


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その後、比叡山を焼き討ちしましたが、東からは武田信玄が、三方ヶ原の戦いにて徳川家康を破りました。
このとき、織田勢は、朝倉・浅井勢と対していたため、佐久間信盛・平手汎秀ら3000しか、援軍を出せていませんでした。
しかし、織田信長(40歳)は、運も良いのです。
なんと、武田信玄が陣中で死去したため、武田勢35000は、甲斐へ戻ってしまい、ピンチを脱しました。
それらの抵抗を操っていた、足利義昭を追放し、ついに近江・小谷城を陥落させると、その勢いのまま越前・一乗谷城まで進撃して、一気に、浅井家と朝倉家を滅亡に追い込みましたので、スゴイです。

1575年には、武田勝頼長篠の戦いで、鉄砲を駆使して撃破し、越前一向一揆も平定しました。
そして、丹羽長秀に命じて、安土城を新築していますが、この頃からは、各方面の合戦は重臣らに任せて、織田信長が戦場に出ることはあまりなくなっていました。

安土城

しかし、織田家に臣従していた、松永久秀が裏切ったため、信貴山城を陥落させるなど、謀反は絶えませんでした。
春日山城の上杉謙信も没し、織田家の天下が見えてきましたが、摂津・有岡城荒木村重も、石山本願寺に通じて寝返ります。

織田信長は、これまで、家臣や一族に、何度も裏切られてきたと言う状況でしたので、家臣らの統制をかなり厳しく行っていた可能性もあります。
それら強硬な姿勢に耐えられない武将らは反旗を翻したと言って良いでしょう。
しかし、柴田勝家は加賀へ侵攻し、豊臣秀吉(羽柴秀吉)は毛利家の中国方面へ兵を進めるなど、忙しく、織田信長の期待に応えようと頑張っています。


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丹波と丹後を平定した明智光秀や細川藤孝にも新たな所領を与え、ついに本願寺顕如も降伏させ、前田利家には能登・七尾城を与えるなど、所領は拡大していました。
そして、1582年、甲斐へ侵攻すると、武田勝頼を自刃に追い込み、武田家も滅亡し、越後攻めでは上杉景勝も、風前の灯火に陥っています。
このように、天下は目前まで迫っていましたが、明智光秀の本能寺の変にて、織田信長は切腹したと言う事になります。享年49。

楽市楽座など様々な斬新な改革も行い、従来の慣例にとらわれない強力な経済力、強力に戦える軍事力を整えた織田信長でしたが、最後まで、家臣に裏切られた人生でした。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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