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駿河・田中城とは
駿河の田中城(亀城)は、1537年に今川家が築いた城で、もともとは徳之一色城(徳一色城)と呼ばれており、静岡県藤枝市にある。
1570年に武田信玄が駿河へ侵攻すると攻め落とし、改修すると「田中城」と改名した。
この時、武田家の山県昌景が入ったが、1572年には板垣信安が城代として入城している。
二の丸及び三の丸外に、丸馬出しが6箇所もあり、武田氏流城郭の特徴が出ている平城だ。
武田信玄の死後、1582年2月、織田信長が甲斐攻めを行った際には、徳川家康が依田信蕃らが守る田中城を落城させた。
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1590年、豊臣秀吉の小田原攻めのあと、徳川家が関東移封となると、駿府城主・中村一忠の管轄下となる。
1601年、徳川家譜代の酒井忠利が入城し、外郭を拡張し総郭を設け、全国でも珍しい円形輪郭式縄張の城となった。
なお、天守閣は最初から無い。
その後、松平氏、水野氏、北条氏など城主が代わり、1730年に本多正矩が田中藩40000石で入封すると、明治まで本多氏が治めた。
依田信蕃
徳川家康が田中城主・依田信蕃を攻めて落城させた。
この依田信蕃は芦田城主・芦田信守の子で、武田信玄の信濃先方衆に見え、武田信玄の死後は武田勝頼に仕えていた。
正室は、跡部勝資の娘。
1568年12月、武田信玄の駿河侵攻にも従軍し、乱入した軍勢の中に依田信蕃(よだのぶしげ)の名も見える。
父・芦田信守は1572年に二俣城主となり、1575年、長篠の戦いの際には、二俣城主・依田信守と共に、依田信蕃や弟・依田信幸も二俣城にて籠城している。
しかし、長篠の戦いで武田勝頼が大敗すると、すぐに徳川家康は二俣城を攻撃し、病床の父・芦田信守が死亡。
武田勢の援軍も期待できない中、依田信蕃が二俣城の守将として抵抗し、6ヶ月間も籠城した。
徳川家康も堅固な二俣城を攻略できず、全員助命の条件提示を受け、依田信蕃はようやく開城すると、高天神城に退去。
この時、二俣城の中をきれいに掃除したあと退去したとされている。
その後、武田勝頼の命を受けて、駿河・田中城の城将となった。
1582年2月、織田信長による甲斐攻めの際に、徳川家康が田中城を攻めたが、この時も依田信蕃は頑固として籠城して抵抗している。
徳川家康は家臣の成瀬正一を使者に出して開城説得するも、依田信蕃は拒否した。
穴山梅雪からの書簡を受けて、2月22日、ようやく大久保忠世に田中城を引き渡した。
その時、徳川家康より仕官の話を受けるも「武田勝頼の安否の詳細が判らない内は仰せに従いかねる」と答え、自領の春日城へ帰還している。
武田勝頼が天目山の戦いで敗れて自害すると、織田信忠の残党狩りから保護する為、徳川家康は、依田信蕃に数人の従者をつけて、二俣の奥小川という場所で匿ったとも言われている。
1582年6月2日、明智光秀による本能寺の変が起こると、依田信蕃は徳川家康に協力する姿勢を見せている。
神流川の戦いで北条氏直に敗れた滝川一益が、6月20日に家臣の道家正栄が守る小諸城に入った際には、依田信蕃は6月22日に滝川一益と対面し、佐久・小県郡から人質を集めて滝川一益に引き渡した。
この人質には嫡子・依田康国や、真田昌幸の母が含まれている。
滝川一益は6月27日に小諸城を依田信蕃に預けて、伊勢へと逃亡。
6月28日に諏訪から木曽谷に入ると、佐久・小県郡の人質を木曽義昌に預けて、7月1日に伊勢長島城に帰還している。
その人質は、1582年9月17日、木曽義昌から徳川家康に引き渡された。
1582年7月12日、北条氏直が碓氷峠を越えて信濃に侵攻すると、依田信蕃は春日城を放棄して三澤小屋に籠った。
その後、徳川家康に協力する形でゲリラ戦を展開し、北条勢の補給線を寸断した。
7月14日には芝田康忠、辻弥兵衛、9月25日に岡部正綱、今福求助、三井十右衛門、川窪信俊など、徳川勢の援軍が三澤小屋に入った。
7月28日、依田信蕃は北条氏直に組していた真田昌幸を調略すると、10月26日には春日城を奪還している。
そして、10月29日に北条家と徳川家が講和すると、それまでの功績が認められ、大道寺政繁が撤退した後の小諸城主となった。
1583年2月20日、大井行吉の岩尾城を、柴田康家らと共に攻略しようとしたが苦戦。
攻城の3日目に、先頭に立って奮戦していたところを淺沼平兵衛の配下の鉄砲隊に銃撃され、その戦傷がもとで死去した。享年36。
この時、弟・依田信幸も討死している。末弟の依田信春は撤退している。
依田信蕃の子・依田康国は、14歳で小諸城主(10万石)となり、松平姓を与えられて松平康国と改名。大久保忠世が後見した。
この松平康国は、豊臣秀吉の小田原攻めで、徳川家康の軍として上野石倉城攻略戦に参陣したが、石倉城が開城となって城の受け渡しの際に、混乱の中で松平康国は鉄砲で撃たれて討死した。享年20歳。
田中城下屋敷
田中城の南東隅にある史跡・田中城下屋敷は、一色家やその子孫である古沢家の屋敷跡と言う伝承がある。
江戸時代後期には藩主の下屋敷(別荘)があったそうで、築山、泉 水、茶屋などが設けられていたとの事。
下記のような土塁跡もあった。
田中城にゆかりの「田中城本丸櫓」もあり、すべて無料で見学可能。
田中城下屋敷への行き方・アクセスですが、下記の地図ポイント地点が無料駐車場の場所となる。
実際の田中城本丸があった小学校へも、ここの駐車場を起点にして徒歩で巡る事ができる。
この記事は戦国武将列伝Ωの記事を再編集したものです。
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