胆沢城
胆沢城(いさわじょう、いさわのき)は岩手県奥州市にある古代城柵跡です。
北上川と胆沢川の合流地に近い、右岸の標高50mほどの水沢段丘上の平坦地にあります。
日本紀略によると、平安時代、坂上田村麻呂が胆沢城を造るために派遣され、802年1月9日に築城開始しました。
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東国の10か国(駿河、甲斐、相模、武蔵、上総、下総、常陸、信濃、上野、下野)の浪人4000名が胆沢城の守備を交替で命じられました。
この胆沢城を建設している途中の802年4月15日に、蝦夷の指導者・阿弖流為(アテルイ)が降伏した模様です。
そして、胆沢城が仙台の多賀城に変って、鎮守府となりました。
九州の大宰府に対して、東北は胆沢城と言う事になります。
発掘調査によると、規模は一辺670m四方の大きさを誇り、2重の堀で囲まれた中央に90m四方の政庁があったようです。
815年からは城兵として400人と健士300人の合計700人が常時駐屯したとあります。
兵士は60日、健士は90日の交替制を取り、常に700の兵力を維持しました。
主な胆沢城の配置や機能としては下記の通りです。
全軍の最高責任者として「将軍」が1名
庶務や施設管理を行う役人の最高責任者として府掌(ふしょう)が2名
将軍を補佐する軍監(ぐんげん)が1名
同じく将軍を補佐する軍曹(ぐんそう)が2名
戦いや日常の吉凶を占う陰陽師(おんみょうじ)が1名
大弓の練習を指導する弩師(どし)が1名
医師が1名
年貢を徴収するため「ムラ」と「郡」をつくる。
朝廷に臣従したエミシを確かめて、もてなす。
狩りや漁などで得た食べ物に感謝し、豊作を祈る儀式などを行う。
このように1083年、後三年の役のころまでの約150年間、胆沢城は陸奥支配の中心となったのです。
現在は国の指定史跡となっています。
胆沢城への交通アクセス・行き方ですが、下記の地図ポイント地点に駐車スペースがあります。
胆沢城の見学所要時間ですが、隅々まで見ると約30分といったところです。
特に大きな見どころはありませんので、サクッと見れば10分で大丈夫です。
この記事は、戦国武将列伝Ωの記事を再編集しました。
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・文室綿麻呂と都留伎~二戸アイヌ壇の史跡とねぶた祭りの関係
・達谷窟毘沙門堂~切り立った岩肌と清水寺を模した毘沙門堂
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