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山形城とは
山形城(やまがた-じょう)は、山形県山形市霞城町にある平城で、1357年に斯波兼頼が築城したとされる。
別名は霞城(かじょう)、霞ヶ城(かすみがじょう)とも言い、国の史跡、日本100名城、日本の歴史公園100選にも選ばれている。
斯波兼頼は北朝方である奥州探題・斯波家兼の2男で、南朝方の大江氏などを攻略するために山形へ入り、山形城の前身を築いた。
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この斯波兼頼の子孫は、やがて「最上氏」を称するようになり、代々、山形城を居城としている。
特に、戦国時代となった最上家11代当主・最上義光のときには、城郭が拡大されて三の丸ができ、家臣団の屋敷なども置かれた。
そして、関ヶ原の戦いによる功績で最上義光は57万石の大々名となると、実質100万石の城下町として山形は繁栄することになる。
その後、最上家信(最上義俊)のとき、家中不取締りによって最上家は改易され、あとには鳥居忠政が24万石にて山形城に入った。
この鳥居忠政が山形城の本丸と二の丸を改築しているため、現在の二の丸跡などは鳥居氏時代の遺構と言える。
しかし、山形城の城郭としては日本国内で5番目の広さとされ、二の丸には5つ、三の丸には11の出入り門があり、奥羽では最大の城である。
山形城外郭である三の丸と、内郭となる霞城公園は、姫路城の外郭や姫路城内曲輪よりもそれぞれ広い。
現在は霞城公園となっているが、本丸、二ノ丸跡(霞城公園)、三ノ丸跡の一部が、国の史跡に指定されている。
出羽・山形城の二ノ丸東大手門は史実に基づいて木造建築で1991年に復元された。
門の規模は、江戸城の門に匹敵する。
本丸は御殿のみで天守はなかったが、二ノ丸に御三階櫓があったと言う。
下記は最上義光の銅像。
明治になり陸軍が埋めた堀も、最近は発掘して復元するなど、山形市や山形県も積極的に山形城の整備を行っているようだ。
2013年には、本丸大手門枡形内の高麗門と土塀が復元された。
本丸全体の発掘調査は、2033年に終了する予定だと言い、その後、本丸北枡形が復元される予定。
山形城は、城域全体が都市になっており、山形城の本丸より城下町の方が高い場所に作られていると言う、日本全国でも珍しい築城となっている。
本丸の内部は冬季閉鎖されていて、外からしか撮影できなかった。
下記は「修羅」で、このように石垣の意思を運搬したと言う見本となっている。
下記写真の建物は、山形市郷土館として移築された旧済生館病院本館。
なんでも、明治6年に私立病院として建設されたらしい。
最上義光が仮病をつかい、谷地城主・白鳥十郎長久を山形城に誘き寄せて殺害した際に、白鳥十郎長久の首を置いたと言われる「首洗い石鉢」が、郷土館の建物左脇に現存する。
下記がその首洗い石鉢。
どうして霞城と呼ばれるのか?
山形城が別名「霞城」と呼ばれる由来を調べてみた。
これは、長谷堂の戦いを演じた直江兼続が、富神山の麓から山形城を10日間ほど見ていたが、霞がかかってずっと見えなかったことから「霞城」と呼ばれるようになったとされているとの事。
下記は、斯波兼頼のレリーフ。
山形城の見学所要時間は、私の場合で30分であったが、本丸が公開されている時期はプラスして時間を考えて頂きたい。
山形城への行き方・アクセス
徒歩であれば東西南北から山形城に入れるが、車の場合には「北門」からしか進入できない。
しかし、北門から入ると、城内にある球場の周りを一方通行で走行できて、その道路わきに駐車場が設けられている。
下記の地図ポイント地点に車を止めて、見学すると便利。
日本100名城のスタンプは、下記の3箇所に設置されている。
山形城跡二ノ丸東大手門櫓、山形市郷土館、最上義光歴史館。
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