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二俣城とは
二俣城(ふたまた-じょう)は、静岡県浜松市天竜区二俣町二俣にある連郭式山城で標高は90m、比高は40mの天然の要塞で、国の史跡にもなっています。
別名は蜷原城とも言いますが、天竜川と二俣川との合流点である二俣にあり、信濃から遠州平野に入る入口で、戦略上も重要な拠点と言えます。
今川家が麓の平地に城館を築いた笹岡古城が始まりとされますが、詳しい年代はわかっていません。
1506年には、今川家の家臣・瀬名一秀が在城している記録があります。
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その後、1514年、二俣昌長が米倉城に移り、松井左衛門尉信薫が二俣城に入り、1528年2月3日に松井信薫が病没すると、家督を継いだ弟・松井宗信(松井五郎八郎宗信)が天竜川を見下ろす小山に築城したとされます。蜷原城(になはら)とも呼ばれます。
桶狭間の戦いで、今川義元と松井宗信は討死したため、松井信薫の子・松井宗親が家督を継ぎましたが、徳川家康に寝返った曳馬城(浜松城)主・飯尾連竜の縁者だった事から、今川氏真に誅殺されてしまいます。
こうして、松井宗信の子・松井宗恒(松井八郎宗恒)が今川氏真に重用され、3千貫を与えられました。
しかし、1569年、今川氏真が甲斐の武田信玄と三河の徳川家康の挟撃により小田原城へ逃れると、松井宗恒は武田信玄に臣従します。
そのため、徳川家康に二俣城は攻撃され、松井宗恒は降伏しました。
徳川家康は、初め二俣城主に鵜殿氏長(鵜殿石見守氏長)を配置しましたが、武田信玄の南下が予想されると、譜代家臣の中根正照を二俣城主にしています。
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二俣城の戦いと一言坂の戦い
1572年10月3日、信長包囲網に応える形で、信濃の青崩峠や兵越峠から30000の大軍で武田信玄が侵攻します。
この時、織田信長は朝倉義景など多くの敵と戦っており、佐久間信盛、滝川一益、平手汎秀、林通勝、水野信元ら3000しか、徳川家康の援軍を出せていません。
犬居城主・天野景貫が武田勢に降伏した勢いで、馬場信春に只来城を落とさせると、武田信玄は自ら22000を指揮して、天方城・一宮城・飯田城・格和城・向笠城などをわずか1日で陥落させます。
そして、10月15日に匂坂城を攻略し、掛川城と高天神城を孤立させます。
そのため、徳川家康は浜松城だけで、武田勢と戦うことになり、天竜川で防衛線を張る為、本多忠勝・内藤信成に偵察先行させ、自身も3000を率いて出陣しましたが、10月14日の一言坂の戦いとなります。
本多忠勝と大久保忠佐が殿(しんがり)を務め、徳川家康は無事に浜松城に戻りましたが、10月16日に武田勢は大軍で二俣城を包囲しました。
武田勢にしてみれば、補給路を確保し、徳川軍の掛川城と浜松城を分断させるにも、二俣城は重要な拠点だったのです。
武田信玄は匂坂城を攻略した後、社山城に布陣し、武田勝頼を大将にして二俣城を囲んだようです。
二俣城は中根正照と、副将の青木貞治ら僅か1200で、武田勝頼の降伏勧告を拒否し、10月18日から武田勢の攻撃にされされました。
しかし二俣城の攻め口は、北東の急な坂道の大手口しかなく、武田勢は二俣城を攻めあぐみます。
山県昌景も二俣城攻略に合流しましたが、そうこうしているうちに12月に入り、力攻めは無理と判断した武田勝頼は二俣城の水の手を絶つ方法を考えます。
二俣城には井戸が無く、天竜川沿いの断崖に井楼を設けて、釣瓶のバケツで水を汲み上げていたのですね。
上記写真は、復元されたその井戸櫓で、現在、清瀧寺の麓にあります。
武田勝頼は、大量の筏(イカダ)を天竜川の上流から流して、井楼の柱を破壊したため、水の手が絶たれ、中根正照は水に苦しみ、12月19日に降伏・開城し、浜松城に落ちました。
そして、1572年12月22日、三方ヶ原の戦いへと発展するのです。
二俣城には、信濃先方衆の依田信蕃が城主となりました。依田信蕃の父・依田信守(芦田信守)も入っています。
しかし、武田信玄の死を知った徳川家康は、すぐに遠江・三河の諸城を攻撃し、二俣城にも1573年6月に攻撃しまたが、この時は撤退しています。
その後、高天神城が武田勝頼によって落城させられるなど、徳川家は厳しい状況が続きましたが、1575年5月21日、長篠の戦いで大勝利を収めると、再び6月に二俣城を攻略開始し、二俣城の隣の小峰に鳥羽山城を築城するなど、5箇所の砦にて包囲しました。
武田勢の依田信守(芦田信守)が病死し、8月14日には諏訪原城を落城させますが、二俣城の依田信蕃と弟・依田信幸は踏ん張ります。
しかし、12月24日、城兵の助命を条件に開城し、依田信蕃は堂々と城を出て駿河の高天神城に退却しました。
この時、二俣城の中をきれいに掃除したあと退去したとされ、徳川勢を感心させています。
この依田信蕃は、織田信長の甲斐攻めの際にも、多くの家臣が武田勝頼を見限った中、なおも田中城で対抗したと言う豪将で、武田滅亡後は徳川家康によって、武田残党狩りから救われて、徳川家臣として仕えています。
その後、徳川家康は、重臣の中でも特に武勇名高い大久保忠世を二俣城主として、二俣城を修復・改築します。
そのため、以後は武田勝頼の攻撃も二俣城は撃退することができました。
天守台は大久保忠世が武田勢と対峙した際に築いたものと推定されているようです。
石垣は石灰岩による野面積みで、戦国時代の天守台としては、静岡県では大変貴重なものです。
清瀧寺にある松平信康の墓
1579年7月、徳川家康の正室・築山御前(築山殿)と長男・松平信康が、武田勝頼に内通したとして、織田信長は2人を処断するよう求める。
信憑性に問題があったが、徳川家康は悩んだあげく、野中三五郎重政、岡本平右衛門時仲を送り1579年8月29日に築山殿を殺害する。
一方、嫡男・松平信康を8月10日、遠江堀江城に幽閉し、その後二俣城に移すと、9月15日に切腹させた。享年21。
介錯は服部半蔵であったが、涙のあまり、刀を振り下ろせなかったとの逸話があり、松平信康は「謀反して武田勝頼に一味するということは、思いもかけないことだ」と言い残し果てた。
検死役の天方道綱(天方山城守通経)は介錯したあと、徳川家康の動揺を見て出家している。
松平信康の遺骸は、大久保忠世によって、二俣城と地続きの蜷原で茶毘に付され、首級は織田信長の許に送られた。
なお、近年では、徳川家康や家臣団と、松平信康らが対立していたのではと言う説が注目を浴びている。
松平信康の亡骸は、服部半蔵正成によって二俣城から峰続きの小松原長安院に葬られ、翌年に徳川家康は廟と位牌堂を建立し、寺に清涼な滝があるのを見て、寺名を清瀧寺と改めさせた。
殉死した吉良於初の墓、当時二俣城主だった大久保七郎右衛門忠世や、三方原の戦いで討死した中根正照(中根平左衛門正照)、青木又士朗吉継の墓も廟内にあるのですが、門が閉まっていて、撮影する事は叶いませんでした。
下記写真は、清瀧寺の本堂ですが、松平信康の墓がある寺で徳川幕府も厚く保護していたにもかかわらず、境内はあまり立派ではなく、草は伸び放題で、5月にも関わらず落ち葉だらけと手入れされておらず、ビックリしました。
これでは、天下の徳川家康公も嘆いているのではないでしょうか?
墓の場所は、本堂の左手裏にあります。
その後、二俣城主には大久保忠世が入ったようですが、天正壬午の乱のあと、信州惣奉行として小諸城の城主も兼任すると、あまり在城しなかったようです。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めのあと、徳川家康が関東に赴くと、堀尾吉晴が浜松城主となり、堀尾吉晴の弟・堀尾宗光が二俣城主となりました。
天守台には堀尾家が、手を加えた可能性もあります。
そして、1600年、関ヶ原の戦いのあと、廃城になったようです。
関ヶ原での戦いがあった9月15日は、奇しくも松平信康が21年前に没した同日でした。
なお、となりにある現在の「鳥羽山公園」は、徳川家康が二俣城を攻める際に築いた城である、鳥羽山城がありました。
二俣城の規模と同じかそれ以上のであったようで、曲輪・枡形門跡・庭園・石垣・井戸・排水溝など、多数の遺構が発掘されたと言います。
二俣城から、鳥羽山へは約500mで、堤防づたいに歩いて行く事も可能で、ハイキング客も多いです。
最初、地図をみた時には、鳥羽山城の場所が、二俣城だと思い込んでいたくらいで、なんで、武田勢などは現在の二俣城の場所を選択したのか、疑問もあったのですが、崖の急峻さは、二俣城の方が優れています。
また、戦国時代には二俣城と鳥羽山城の間を、二俣川が流れていたようですので、そうすると今の地図とは異なり、二俣城の方が圧倒的に防御面で適していたとわかります。
それにしても、武田勢は甲斐からはるばる、青崩峠や兵越峠を、何度も良く越えてきたものだと、こちらも感心してしまいます。
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さて、二俣城への行き方・交通アクセスですが、電車の場合、天竜浜名湖鉄道の二川本町駅から、本丸まで徒歩10分位ですが、行きは登り坂となります。
車の場合には、坂を上がった下記のポイント地点(搦め手口)に、約10台ほど止められるスペース(駐車場?)があります。
見学所要時間は、二俣城だけでしたら、30分~50分といったところでしょうか?
松平信康の墓がある清瀧寺は駐車場がありませんので、下記の二俣小学校前の無料駐車場に止めて、徒歩5分。
清瀧寺の東側にある下記写真の「金の生える木」脇の階段を登って行くと行けます。
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