和歌山県

紀伊・雑賀城 豊臣勢に雑賀衆が抵抗した拠点と雑賀撃ち

紀伊・雑賀城

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紀伊・雑賀城(さいかじょう)は和歌山県和歌山市和歌浦中にある標高20mの丘城(平山城)ですが、紀伊水道に近い海辺にある事から比高も20mと言って良いでしょう。
別名は妙見山城と言います。
最初の築城は、戦国時代で、雑賀党の鈴木重意(鈴木孫市、鈴木佐太夫)が築いたとされますが、築城年は不明です。
雑賀城の東には侍屋敷、西には城下町があったとされます。
石高としては、約7万石程度の勢力だったようです。


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雑賀城も和歌山だけと思いきや、讃岐・雑賀城もありますので、ハッキリと区分するため、ここでは、紀伊・雑賀城と明記させて頂きます。

鈴木孫一雑賀衆は、鉄砲隊が強く、1570年、石山本願寺の戦いでは、石山本願寺に入って織田勢を苦しめました。
そのため、織田信長は、本願寺顕如への攻撃を中断して、1577年に紀ノ川北岸の十ヶ郷にある鈴木氏の紀伊・平井城を攻略しています。
このとき、残った雑賀衆は、この紀伊・雑賀城へ退きましたが、周りに弥勒寺山城を始め、東禅寺山城、上下砦、宇須山砦、紀伊・中津城、甲崎砦、玉津島砦、布引浜の陣などいくつも出城(支城)を築いて抵抗しています。
こうして戦線は膠着し、鈴木孫一、土橋若大夫、粟村三郎大夫ら7人は誓紙を出して和睦した模様です。

雑賀城

雑賀衆の鉄砲射撃が優れていたのは「雑賀撃ち」と言う射撃方法であったと言います。
考案したのは雑賀孫一の可能性がありますが、鉄砲は下手くそな者が撃っても当たらないですよね。
そのため、鉄砲が得意な者に対して、火縄銃に弾を込めた鉄砲を、後ろから、次々と手渡ししたそうです。
鉄砲撃ちの分業制と申しましょうか、担当を分けて効率よく武器を使用した訳ですね。

その後、雑賀衆は織田信長を裏切っておらず、1582年に明智光秀本能寺の変になると、そのあとは豊臣秀吉に接近して、鈴木氏は大坂城下に屋敷を与えられたようです。
1585年、豊臣秀吉の紀州攻めでは、紀伊・太田城への降伏勧告の使者を雑賀孫一(鈴木孫一)が務めています。
このような感じですので、雑賀衆が豊臣家に降伏してから、紀伊・雑賀城は使われなくなったと考えてよいでしょう。

雑賀城

紀伊・雑賀城への交通アクセス・行き方ですが、養珠寺の南にある「城跡山公園」(津屋公園)が雑賀城跡であり登れます。
この辺りは「和歌浦」と言い、古くから和歌山市内の観光スポットでもありました。
昔は雑賀城の脇が、海岸線ではなかったのか?と推測します。
JR紀勢本線の紀三井寺駅からバスで移動し、和歌浦バス停下車の徒歩10分で麓です。
ただし、付近に駐車場も無いのです。
セブンイレブンの駐車場に停める訳にも参りませんので、その駐車場から遠景の撮影をするなどに留め、今回、登城は断念致しました。
あと、近くの観海閣と言う小さな島に渡る橋も、工事していました。
どうやら、関空も閉鎖された2018年9月の台風で大きく破損したようですので、和歌山のあたりも大変だった模様です。

時間があれば、紀伊・弥勒寺山城も行ってみたかったのですが、次は、和歌山城に行きました。

鈴木孫一(雑賀孫一)~石山合戦では雑賀衆の鉄砲隊にて織田勢を撃退
紀伊・太田城 豊臣秀吉による太田城の水攻め
根来寺 荘厳な雰囲気な根来衆の本拠地
根来大善(根来盛重) 根来衆の頭領
千石堀城 和泉にて対抗した根来衆の砦
和泉・高井城 失われつつある遺構
積善寺城 根来衆などが立て籠もった和泉の城跡
和歌山城 紀州藩の大城郭で麗しき日本100名城
日本全国のお城がある場所が分かる地図


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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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