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丹波・八上城 波多野稙通(波多野元清)と波多野氏の盛隆・八上城の戦い

丹波・八上城

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丹波・八上城とは

丹波・八上城(やがみ-じょう)は、兵庫県篠山市にある丹波富士と称される高城山に築かれた連郭式山城で、国の史跡に指定されています。
標高462m、比高は240mと結構な山城で、別名は八上高城とも言います。
尾根続きで西側にある法光寺山(標高340m)も城域で、山陰街道の抑えとなっています。
登山道なども整備されているようで、北側山麓の主膳屋敷址をはじめ、 曲輪、堀切などもよく残っていると言います。


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最初の築城は、戦国時代の1508年に、波多野元清が築いたとされます。
波多野氏は、もともと相模国波多野荘(神奈川県秦野市)を本領としていた豪族で、源頼義に仕えていた佐伯経資が、相模守として赴任したのが始まりとされます。
鎌倉幕府では源頼朝に従い、松田郷を領して松田氏の祖も輩出しています。
そして、諸説ありますが、応仁の乱で丹波守護・細川勝元に味方して戦功があった波多野秀長が、丹波多紀郡の難波氏を追い払って、高城山から繋がる先端部に奥谷城を築きました。

奥谷城

要するに、朝倉氏の一乗谷城と同じように、山と山に挟まれた場所に城下町を築こうとしたようです。
城下町はその奥谷にあったと言いますが、今は民家も多くはなく、田んぼなどになっており、その面影はありません。

奥谷城

その後、1508年になって、波多野稙通(波多野元清)が、奥谷城よりもっと高所となる場所に八上城を設けたと言う事になります。

八上城

細川高国に従っていた、この波多野稙通(波多野元清)は、知勇を備えた名君で、丹波の国人を次々に従え、丹波守護代・内藤氏も討ち、勢力を拡大しました。
1526年、弟の香西元盛(こうざい-もともり)が、管領で丹波守護でもあり絶大な権力を持っていた細川高国に殺害される事件が起こります。
いざこざがあった細川尹賢の讒言によるものでした。
そのため、神尾山城である弟・柳本賢治と共に波多野稙通(波多野元清)は蜂起しました。
ちなみに、これに乗じて、阿波でも細川晴元や三好元長が反乱を起こし、細川氏に攻勢を掛けると阿波勢は畿内まで進出しています。
細川尹賢が反撃に出て、1526年10月からは八上城・神尾山城両城の戦いとなりましたが撃退し、波多野稙通(波多野元清)は、守護・細川氏の勢力を丹波から駆逐すると丹波を統一しました。
1527年には、柳本賢治や三好元長らが京にまで侵攻し、1528年、細川高国は近江に逃れました。
細川晴元は、足利義晴を擁して細川家の本家と言える京兆家の家督を継ぎ、波多野稙通(波多野元清)の実力を認めると、室町幕府の評定衆に加えています。
また、波多野稙通の娘が三好長慶の正室となっています。


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1545年、波多野稙通(波多野元清)が死去すると、家督を継いだ波多野晴通(はたの-はるみち)は、暗愚だったとされます。
1548年に、三好長慶に嫁いでいた波多野稙通の娘が離縁すると、三次氏と対立し、細川晴元と結びました。
そのため、1552年は三好長慶、1553年は松永久秀からと立て続けに攻撃され、1555年に三好政康の攻撃を受けると三好家に降伏しました。
跡を継いだ、波多野秀治(はたの-ひではる)は、三好長慶の死後、1566年に八上城を奪還し、松永孫六の反撃も撃退すると戦国大名として復帰します。

八上城

また、三木城主・別所長治に娘を嫁がせて同盟しました。
しかし、時代は織田家が勢力を伸ばしており、1568年には足利義昭を奉じた織田信長が上洛し、波多野秀治は織田家に臣従します。
その後、明智光秀が丹波に派遣されると、明智勢に加わって織田氏に対抗する豪族の討伐を行いました。
ところが、波多野秀治の本心は織田信長に従ってうらず、裏では反織田の豪族に協力しており、天正4年(1576年)1月、突如、織田家に反旗を翻しました。
そして、黒井城の戦いにて、明智勢を背後から襲撃して勝利を収めています。

当然、織田信長が許す訳はなく、1577年11月には羽柴秀吉が攻めており、1578年には明智光秀が大軍をもって侵攻すると籾井綱利(籾井教業)の籾井城を落とし、第7次・八上城の戦いとなりました。

八上城の戦い

この時は、1年6ヶ月に及ぶ籠城戦となり、各地の豪族も織田家に降伏し、兵糧も尽きたことから、1579年6月、ついに織田家に降伏しています。
このとき、明智光秀は、波多野一族の命を保証すると、老母であるお牧の方(明智牧)を八上城に送ったともされています。

八上城の戦い

当然、命は許されず、安土城に送られた波多野秀治は処刑されました。
その後、八上城には明智光忠が入っています。

丹波・八上城

しかし、1582年、本能寺の変のあとには、亀山城主となった羽柴秀勝の所領となり、配下になった考えられる並河飛騨守が八上城主となりました。
ただし、波多野氏滅亡後の時点で、並河飛騨守が八上城主で、周山城が明智光忠だったとする説もあります。


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その後の八上城の動向はよくわかりませんが、関ケ原の戦いのあと、1602年になると、前田玄以の子・前田茂勝が、50000石にて八上城に入りました。
麓の主膳屋敷跡が、前田氏の屋敷と言う事になります。
しかし、慶長13年(1608年)に前田茂勝は改易され、代わって常陸・笠間城より入封した松平康重は、篠山城を築城したため、八上城は廃城となっています。

移築城門

なお、篠山城の青山歴史館の敷地に、八上城の城門と伝わる移築城門があります。

八上城の移築城門

飛行機までの時間がなく登れませんでしたが、観光所要時間ですが、春日神社から右衛門コースで、頂上まで片道45分ほどのようです。
駐車場は、ないようです。
もちろん、篠山城とセットでどうぞ。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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